幕間

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 木京(ムージン)から鴉威(ヤーウィ)の地までは、距離にして千里(約400Km)も離れている。  当然歩いていては辿り着けないので馬を使うことになるが、身体がすっかり弱っていた燕宗(イェンゾン)は自力で馬に乗ることもできず、後宮育ちの雪加(シュエジャ)は元々乗馬なんてできない。  仕方なく、アビは二人を抱えるようにして馬を操るしかなかった。  しかし人を三人も乗せていたら、馬がすぐに疲れてしまう。そこで交代用の空馬も引いて、こちらの背には三人分の旅装を積んだ。  三人分といっても荷物は少ない。出発を急いだ為ろくに準備をできず、必要な物は途中で買えるように、大半を金子で受け取ったからだ。空馬の方は、今のところ荷が軽くて喜んでいるだろう。  遠くに見える山並みが淡い光を滲ませる頃、アビは街道脇の井戸の前で馬を止めた。  鵠国はやはり文明の進んだ国であり、街道もきちんと整備している。十里ごとに行程の目安となる塚を置き、そこには井戸も用意して、旅人が飲み水で困らぬようにしてくれている。  旅は夜明けとともに出発し、日が暮れる前に宿泊するのが一般的であるため、まだ薄暗いこの時間に旅人はいない。  アビは二人が馬から降りるのを手伝ってやった。手のかかるこの二人は、一人では馬から降りることすらできないのだ。  馬の背に揺られることに疲れていた燕宗は休息を喜んだが、雪加は声をかけても返事が無い。  顔の傷が原因であろう。  美しさを何より誇っていた雪加は、いまだ現実を受け止められないのだ。  アビは二人を井戸端に座らせると、空馬の背から荷物を下ろし、中から新しい包帯を取り出した。 「包帯を取り替えるぞ。こっち向け」  せっかく声をかけてやったのに、彼女は醜い顔を見られるのが嫌で抵抗する。しかし放っておくと化膿して顔が倍に膨らむぜ、と脅してやったら、渋々応じてくれた。  そして彼女の傷口を目の当たりにした瞬間、アビは絶句してしまう。 「……こんなもんかよ」  雪加の凹みっぷりが激しかったのでどれだけの大怪我なのかと思ったら、なんのことはない。幅が一寸(約3cm)にも満たない些細な傷ではないか。  イスカは何か尖ったもので突き刺したようで、深さはそれなりにあったから、もしかしたら痕は残るかもしれないが、化粧で隠しきれる程度だと思う。  しかし美しさにこだわる雪加にとっては、二度と己の顔を見たくないくらいのおぞましい傷であるようだ。  だからアビが汲んでやった井戸水も、水面に自分の顔が映るのを目にしなくていいよう、目を閉じたまま飲み干していた。  一息つくと、燕宗は物陰へ用を足しに行く。  雪加が使った椀で、今度は自身の喉の乾きを潤したアビは、燕宗が今しがたまで座っていた場所へ腰を下ろした。 「なるほどな。お前はこんな傷をいくつもつけられるくらいならもう嫌だと言って翡翠姫であることを辞退してきたわけか」 「……」 「八哥(パーグェ)も酷なことをする。それにしてもお前は自慢の顔が汚されてさえも、やっぱり世を儚んで自害したりはしないんだな」 「……当たり前じゃ。どうして妾が死なねばならぬ」  アビの口ぶりに誘われたようで、雪加はいつものように言い返してきた。その声には力が無かったが、それでも死なないという意思だけは感じられた。  この女はやはり母と違う、とアビは改めて思い、嬉しくなった。 「ははは、安心したぜ。それくらいの逞しさがないと、寒さの厳しい北の大地じゃ生きていけないからな」 「妾は鴉威の地でなど、暮らしとうない」  雪加はむっとした口調で言った。  そして確かに、雪加まで鴉威に来る必要はなかったな、と気付いてしまう。  イスカにしてみれば、鴎花を翡翠姫として遇するために、邪魔者となった雪加を追い出したいだけであり、その行先はどこでも良かったし、何なら殺しても良かったのだろう。  ただアビが雪加と共にありたいと願った。
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