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「燕宗が……お前の親父が行くんだぜ。何処へなりともついていって親孝行してやるのは、華人として……いや、翡翠姫として当然のことじゃないのか」
彼女が翡翠姫であり続けたいと願っていることは、誰よりアビが理解している。
だから燕宗から聞いた話は口外しないでおこうと思い、イスカがまだ鴎花を偽物だと思っていることには気付いていたが、敢えて何も言わずに出てきてしまった。
雪加をせめて翡翠姫として後宮から旅立たせてやりたかったし、彼女はこれからも自分自身が翡翠姫だと思って過ごせばいいのだ。
この誇り高い女には、それ以外の存在であることが似合わないのだから。
しかし雪加はアビが口にした翡翠姫という言葉に、一瞬動きを止めてしまった。
アビと同じ色をした瞳に過ったのは、虚空に浮かぶ雲のような色。実際には激しく動いているのに、仰ぎ見る者の眼には何一つ変化なく見える。
「雪加……?」
「……そうじゃな。父上様の御為であれば、やむを得ぬな」
彼女は何かを吹っ切るように、さっぱりした口調で現状を受け入れ、そして持って来た荷物を指さした。包帯を取り出すため、アビが袋の口を開けたままにしていたのだ。
「あれは琵琶ではないかえ?」
「あぁ。香龍宮にあったお前の荷物を見せられて、どれか持っていくかと聞かれた時、これが目に留まってさ」
アビの母が好きだったのだ。
故郷を想って奏でる母の琵琶の音は、もの悲しくも美しく、草原の風に乗ってどこまでも響いた。
雪加は愛しげに琵琶を抱きかかえ弦の調子を確認する。戻ってきた燕宗も「おぉ、良いものを持って来たのぉ」と目を細めた。
雪加が琵琶を得意としていたことを彼も思い出したのだろう。
「そうじゃ、父上様にも久々に聴かせて差し上げましょうぞ」
雪加は優雅な手つきで琵琶を弾き始め、その澄んだ音色に感動した燕宗は泣いて喜んだ。
東のなだらかな山の陰から、まばゆいばかりの朝日も昇ってきたのだ。山の輪郭を彩るような光は、圧倒的な輝きで大地を覆いつくしていく。
「……良き門出じゃ」
もう二度と拝むことはないと覚悟した陽の光を全身に受け、燕宗は呆けたように立ち尽くし、そのやつれた身体を震わせていた。
「朕は果報者である。なんと有り難き事じゃ」
雪加も粋なことをするものだ。
我儘一杯に育ったお姫様も、実の父だと思い込んだこの男への孝行心くらいはあるのかもしれない。
「雪加、そなたにも苦労をかけるのぉ」
燕宗の方も雪加に優しい。
彼は雪加が実の娘ではないことを分かっているが、皇后の身勝手に巻き込まれただけの不運な娘であると認識しているようだ。
それに実の娘がイスカの元で翡翠姫として暮らしていくためには、この偽物のお姫様の方を世の中から隔離しておかねばならないと思っているのかもしれない。
そこまで考えての行動だとしたら、燕宗はなかなかに賢い男だ。
大体、あの灯りも無い地下牢の奥深くで半年以上幽閉され、それでも正気を失わずに過ごしていたことを考えれば、彼は存外強靭な心を持った皇帝だったのかもしれない。
「そういえばそなたは、最後にあの僭王からこの包紙を渡されておったな」
琵琶を再び荷物の中に片づける時、雪加は底の方に入っていた紙包みを取り出した。
彼女が開封してみると、中からは布切れで包まれた茶碗が一つ出てきた。
緩やかな曲線が美しい琥珀色の茶碗で、かつて燕宗が作り、白頭翁に下賜したものである。今は鴎花の持ち物となっていたが、その中の茶碗の一つをイスカは弟に渡したのだ。
「あぁ。この水準のものを作れるまで戻ってくるなって、八哥直々のご命令なんだ」
アビは苦笑交じりに肩をすくめた。
「それってまさに永久追放ってことだよな。冗談きついぜ、うちの国王陛下は」
「いや、むしろ腕が鳴る。朕はきっと鴉威の地を代表する、理想の陶器を作って見せようぞ」
燕宗が意気込んだその言葉はあまりに楽観的過ぎるものだったから、これにはアビだけでなく雪加までもが絶句してしまった。
これから登り窯を作り、窯に火をつけるための燃料を集め、それから、まともに使えるのかもまだはっきりしない土をこねるのだ。
生活基盤も無い身でそんなことがすぐにできると思っているこの皇帝陛下は、あまりに浮世離れしている。
「……前途多難。罪を贖うのはとにかく大変ってことだな」
アビは苦笑交じりに呟くと、燕宗と雪加を順に馬の背に押し上げてやった。
続けて自分も鐙に足をかけて馬にまたがる。
乗馬の腕なら誰にも負けないアビであるが、二人も乗せての乗馬は初めてでいまだに要領を掴めていない。同時に空馬の手綱を引くこともしているのだから、余計に難しい。
鴉威の地まではあと九百九十里。
光り輝く朝の陽を受けて眩しそうに目を細めたアビは、これは長い旅になりそうだ、と肩をすくめた。そして馬の腹を蹴り、再び北へ向かって歩を進めたのだった。
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