八章 天帝の娘

1/22
前へ
/150ページ
次へ

八章 天帝の娘

一.  天暦(ティェンリー)299年五月、葦切(ウェイチェ)の岩の割れ目から水柱が噴き出した。  それはあまりに唐突で、俄かには信じがたいことであり、早朝に報告を受けたイスカは思わず天幕から飛び出して我が目で確かめた。  しかし本当に水柱は上がっていたのだ。  今イスカがいるのは長河(チャンファ)の南岸で、葦切からは直線距離にして二十里(8km)ほど離れているが、それでも昨日まではなかった塔のようなものが建っているのを目にすることができた。  最も近くで水柱を観察した者からの知らせによると、その高さは十丈(約33m)以上あるそうだ。水量も多く、轟音を上げて青い空へ向かって噴き出し続けているのだという。 「伝承は(まこと)だったか……」  愕然としたイスカが一番に思い立ったのは、鴉威(ヤーウィ)の地へ追いやった雪加(シュエジャ)を呼び戻すべきだ、ということである。  この水柱が噴き出したら、天帝(ティェンディ)の娘を捧げなければいけないのが、古来からの盟約のはず。そうしなければ中原は水を司る龍の神の放つ気によって水没する。  しかし雪加を連れてくる時間は無いとすぐに気付いた。  雪加を後宮から追い出してから、もう八ヶ月もの時が過ぎている。当然彼女はもう鴉威の地に到着して、羊や山羊に囲まれて暮らしているはずだ。  しかし伝承によれば、噴出から十日の間に天帝の娘を捧げねばならないのだ。遠い鴉威の地へ使者を走らせるのでは絶対に間に合わない。  イスカは年始の変の直後、皇族の女達だけでなく、天帝の血を引くという(ツェイ)家の女達も皆殺しにしていたので、他に捧げられる女がおらず、こんなことならもう一人くらい生かしておけば良かったと激しく後悔することになった。  更に間の悪いことに、イスカは今、郭宗(グォゾン)の軍勢との戦の最中だった。  昨年の葦切での敗戦の後、今度は郭宗自らが先頭に立って攻め込んできたのだ。  そこでイスカも前回の反省を生かし、川を挟むのではなく、長河の南岸に兵を展開して迎え撃つことにした。  イスカが頼みとする鴉威の騎馬兵を有効に活用するには広い土地があった方がいいし、兵を運ぶための大量の船もこれまでの間にしっかり準備できていた。  それに五月という気候もイスカには都合が良かったのだ。鴉威の騎兵が暑さで弱り、戦が始まる前からくたびれ果てるということもない。  こうして両軍とも二十万もの大軍を率いて陣を敷き、対峙することになったが、今のところ戦火を交えるには至っていない。  兵を展開しながらも、イスカが和平を持ちかけたからだ。  郭宗もこれに応じた。  そこで明後日にもその席を設ける約束になっていたのだが、そんな時に水柱が何の前触れもなく上がったのだ。 「くそったれが……」  大きな舌打ちと共に悪態をついたイスカは、ギリギリと奥歯を噛みしめた。  これはどうすればよいのだ?  イスカの周囲を見回すだけでも、華人(ファーレン)の兵士達は大いに怯えていると分かった。中には地に平伏して天帝への祈りを捧げている者もいる。  水柱が何たるかを分かっていない鴉威の兵士ですら、この異様な光景を目にしては動揺を隠しきれない。  そんな中、兵の一人がよろめくようにイスカの前に進み出ると、跪いて懇願した。 「陛下……王妃様に、どうかご命令くださいませ……葦切へ赴けと」  これにはイスカが返事をする前に、他の兵士達も彼に倣った。  皆、イスカが彼女一人を妻にしていることは知っている。それほどまでに王妃だけを愛しているとは容易に察しがつく。  故に決断を渋られては堪らぬと、彼らは直感的に嗅ぎ取ったのだろう。  イスカの目の前に兵士らが次々と膝を砕かれたかのごとく跪いていくという、異様な光景が広がった。  彼らの抱く恐怖感が全軍へ波のように浸透していき、イスカをその中へ呑み込もうとしているかのようだ。 「……」  じわりと脂汗が滲み、圧迫感で喉を締め付けられた。  イスカは王として自分が採るべき選択を、正確に解している。  だが、同時に打つ手が無いことも悟っていた。  王妃は……鴎花(オウファ)は天帝の血を引いていないのだから、水柱へ捧げても無意味なのだ。 「……分かった。だがあと十日ある。しばし待て」  怯える兵士らにそう告げると、イスカは一旦自分の天幕に戻った。  背後では兵士達が更に動揺し、騒ぎ出す気配を感じたが、今は彼らの前に立つことができない。あの恐怖に取り憑かれた目に見上げられていては、正しい判断なんてできなくなる。  イスカは絵図面を取り出して開いた。  戦の為に用意したもので、この近辺の街や、地形などを書き込んである。  その殆どを絵で表現してあり、文字は僅かしか書かれていないから、文盲のイスカでもなんとか読める。 (……考えろ)  両の目を大きく見開いて絵図面を睨みつけながら、イスカは焦る己に命じた。  打つ手がないとは言っていられない状況だ。  このままではイスカは、この地が大水で覆われると恐怖する者達に流されて、鴎花を無駄死にさせてしまうことになる。  何か策は無いか?  翡翠姫以外に天帝の娘を用意できないか?   そうすれば民心は落ち着き、水柱も収まるだろう。  しかし葦切まで十日で往復できるくらいの近距離に、そんな都合のいい女は存在するだろうか?
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

81人が本棚に入れています
本棚に追加