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郭宗と会談をする約束をしたのは、両軍の陣からちょうど中間になる、なだらかで見晴らしの良い丘の上だった。
水柱が上がった翌日の夜、イスカはこの丘の上に大男の石蓮角一人を伴ってやって来ていた。
この辺りは広大な茶畑になっていて、よく手入れされた低木が並んで植えられている。
鴎花が普段イスカの為に淹れてくれるお茶はこんな風に育つものだが、後宮の外へ出ることが無い彼女はまるで知らないだろうな、とふと思った。
景徳寺まで連れて行ってやった時にも初めて木京の外に出た彼女は大喜びし、そして田畑で泥だらけになって働く者達の姿を間近で見ては深く感じ入った様子だった。
美しい花に感動するのも良いが、民草の姿にまで目を向けることができるのも、彼女の良いところであろう。
そんな彼女には、これからもっといろんなものを見せてやりたい。
その為にもここが正念場。
イスカは丘の一番高いところに床几を二つ置かせると、そのうちの一つに腰を下ろした。
頭上では数え切れぬほどの星が輝き、月も出ている。
五月の夜は肌寒さも覚えるが、北方の産であるイスカにとってはこれくらい寒さのうちに入らない。身につけているのは革の鎧と黒い頭巾、それに外套だけだが、例えこれらを脱いだとしてもなんともないだろう。
いや、気持ちが昂って寒さを感じていないだけかもしれない。傍らに控える蓮角も、暑くも無いくせに先ほどから額に滲む汗をしきりに拭っている。
無理もない。何しろ今からここに現れるのは、これからの戦のみならず、中原の未来をも左右する男で……。
「……来ました」
暗闇の中をこちらへ向かって進んでくる馬蹄の轟を感じ取った蓮角が、低い声で囁いた。そして地に耳をつける。
「四、五、六……十騎弱です」
「よし、火をつけよ」
予定通り彼らは少人数で現れたようだ。安堵したイスカは傍らに設置していた篝火に火を灯させた。
松脂が爆ぜ、闇夜に盛大な光を放つ。その瞬間、松明を掲げて丘を登ってきた騎影が、戸惑った様子で足を止めた。
「郭宗だな?」
立ち上がったイスカが大きな声で問いかけると、一行の先頭にいた男は返事をするより前に、供の一人である嘴広鸛を睨みつけた。
「騙したのかえ」
その通りである。将の一人として北伐の軍に加わっていた彼は、イスカが送った密偵からの指示により、明日の会見場所の下見という口実で皇帝をここまで連れてきたのだ。
郭宗自身に事前に伝えなかったのは、そんなことをすれば彼がイスカを殺すつもりで大軍を引き連れてくる可能性を疑ったからだが、広鸛はどうやらこちらの指示通りに働いてくれたようである。
皇帝だけでなく、他の供の者達からも殺気立った目を向けられた彼は「陛下を謀るなど、万死に当たる烏滸の沙汰と存じますが、これこそ鵠国の国益に叶うことだと愚考し……」と必死で言い訳を述べていたが、要は言いつけを聞かなければお前を殺すぞ、とイスカに脅されてやったことである。
「いいじゃないか。どうせ明日にも会談を行う予定だったんだ。半日早いくらいは問題あるまい」
それに二人きりで無いと話せないこともあるしな、と付け加えたイスカは蓮角を後方へ下げ、床几に座り直した。
「……」
郭宗はむくれた顔をしつつも馬から降り、イスカの正面に置かれた床几に腰を下ろした。
目の前にいるのがイスカ本人だと気付いた供の一人が、今にも「殺!!」と叫んで飛びかかって来そうな顔をしたが、これに対しては「下がっておれ、鵬挙。ここは朕一人で良い」と命じる。
どうやらこの血気盛んな青年が鄂鵬挙のようだ。東鷲郡の長官の倅で、昨年葦切に攻め込んできた若き将軍である。
父の仇を討てる絶好の機会であるのに、と悔しさをにじませつつも、言いつけに従った鄂将軍は郭宗の十歩ほど後ろへ下がり、片膝をついて座る。他の者達もまた素直にそれに倣うのを見て、イスカは僅かに目を細めた。
この男はよく部下を従えているようだ。その上状況判断が早いし、敵国の王と一対一で向かい合って座っても臆す気配が無い。
篝火の灯りで照らし出された彼は引き締まった風貌の青年で、その肌はよく日焼けしていた。
鵠国の皇帝と言えば燕宗のように軟弱な者ばかりかと思っていたが、南の辺境で長く暮らしていたこの男は違うのかもしれない。
イスカは気を引き締めつつも、尊大な態度で話し始めた。交渉事は最初から下手に出るべきではない。
「広鸛がお前の側にいるということは、もう話は聞いているな?」
「……噂には聞いておったが、北方の者というのはせっかちじゃな。いきなり本題に入るとは」
宮中のしきたりである長い口上に慣らされてきた郭宗には、イスカの態度が不自然に映ったようだが、そんなことはどうでもいい。
「一戦も交えぬうちにお前が和平交渉に応じたということは、この北伐は俺と話をする為のものなのだろう?」
「まずは証拠を見せよ。広鸛の話だけでは事の真偽を判断できぬ」
部下達を下げているものの、郭宗は用心深く燕宗という単語を避けている。
「これまであの男が見つかっていないというのが、何よりの証拠だと思うが?」
「もっと確実なものを出せるであろう」
「首を持って来いと? それはいくら何でも親不孝が過ぎるんじゃないか?」
イスカは嗤ってやったが、郭宗は動じなかった。むしろ床几を蹴って勢いよく立ち上がる。
「よぅ分かった。そなたの話は嘘じゃな。何も出せぬのであれば、この話は無しじゃ。次に見える時は剣戟の響く中でと思え」
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