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イスカは心の中で舌打ちを漏らす。
やはりこの皇帝陛下、こちらの思いどおりに動いてくれるような甘い男では無かった。
兎にも角にも、ここで郭宗を手放すわけにはいかないイスカは、仕方なく己の手の内を明かしたのだ。
「……悪いが、燕宗の身柄は去年のうちに鴉威の地へ送ったんだ。だから証拠は出せない」
「ふん。その話を信じよと?」
「確かに横着な話だな。これは俺が悪かった。代わりに我らが長河の南岸から兵を引くことで許してくれないか?」
「なんじゃと?」
「なんなら葦切もつける。あの島があれば、威国は喉元に匕首を突き付けられたも同然。その上での和平なら信に足るか?」
「正気かえ?」
郭宗が思わず聞き返したのは、葦切が長河を横断するための要所であり、木京を防衛するためには欠かせない場所だからだ。
だからこそ鄂将軍は去年の葦切での戦いでこの島を占領することを目標としたし、イスカは今でも兵を常駐させて守りを固めている。
しかしイスカはそれでも構わないと言い切った。
「それだけ和平に本気だということだ。俺は中原の民を長引く戦で苦しめたいわけではない。寒さ厳しく、痩せた土地で生きる鴉威の民が、これから先も腹いっぱいに飯を食って暮らしていくためには、実り豊かな中原の大地が不可欠だ。だが俺達は中原の全てを欲しているわけではない」
「……」
郭宗は床几に座り直し、そして押し黙った。
葦切さえ得ておけば、将来木京を攻め落とすための足掛かりになるのではないだろうか、と考えたのだろう。
皇帝として即位してからまだ一年にもならない彼は、いまだ長河の南、河南地域の全てを掌握しきっていない。今は基盤を固めることに全力を傾けたいはずなのだ。
今回は葦切を得るだけで良しとし、今後余力ができてから攻め直せばよいのでは……?
郭宗が脳裏に思い描いた計算を正確に見抜いたイスカは、蒼い瞳を僅かに細めて追加の条件を告げた。
「ただ一つ、こちらが葦切を差し出すためには、崔皇后を渡してほしい」
「母上様を?」
「今は皇帝の母親なのだから別の呼び方なのか? その辺りの華語はよく分からぬ故、俺は今まで通り皇后と呼ぶぞ。お前の軍勢の中にあの女がいることは調べがついている。今はその皇后の身柄が至急必要なんだ」
それがイスカの考えた唯一の解決策だった。
翡翠姫以外に天帝の血を引く女というのは、いまや郭宗の母しか存在しない。
もしかしたら郭宗に娘が生まれていて、その子は資格を有しているのかもしれないが、そんな幼い子なら遠い郭の地にいるはずだ。
しかし崔皇后はどういうわけだか、息子が率いる北伐の軍隊と共に来ていたのだ。
天帝の血を引く一族とは本来崔家であり、皇后はその家の娘である。
故に代々の皇帝は崔家の娘を皇后としてきた。
皇后を崔家の女に限ったのは、外戚の横暴を警戒した為だけではない。例え皇后以外の女が生んだ男児が皇帝になったとしても、皇后さえ崔家の娘であれば、天帝の血を引く女をいつでも葦切に捧げられるからだ。
「これは威国の為だけではない、河南で暮らす鵠国の民にとっても重大な話だ。お前にとっては苦渋の判断になると思うが、どうか吞んでほしい」
イスカの申し出に対し、郭宗は首を傾げた。
郭宗の陣地からも葦切の水柱は見えており、天帝の娘を一刻も早く連れてこなければいけない状況であるとは分かっているが、どうしてイスカは自分の王妃である翡翠姫を使わないのか?
彼がこの点に疑念を感じるのは当然であり、イスカはこうなるともう正直に全ての事情を明かさざるを得なかった。
「……翡翠姫は鴉威の地へ追放した。俺の王妃はその乳姉妹で、侍女を務めていた鴎花という女だ」
「うむ?」
「本物を庇うために、鴎花は自分が翡翠姫だと偽っていたんだ。俺は長くそれに気付けなくてな」
「それでも気付いたのであろう? その後も侍女の方を王妃にするとはどういう了見じゃ? 何故、雪加を鴉威から呼び戻して王妃としなかった?」
「……仕方ないだろう。本物の翡翠姫はあまりに可愛くなかった」
イスカの不貞腐れたような言い様が可笑しかったようだ。郭宗は咄嗟に、くっ、と声に出して笑った。
郭宗は長く郭の地に追放されており、瑞鳳宮を離れた時にはまだ幼かった妹が、その後どんな女性に育ったのかを知らないはずだが、それでも幼い頃から彼女の高慢ちきな性分の片鱗は見え隠れしていたに違いない。
こうして状況を理解した郭宗は、次第に不敵な笑みを浮かべ始めた。
この交渉、天帝の娘を得ている自分が優位に立っていると気付いたのだ。
「なるほどのぉ……よぅ分かった。この話をする為に、そなたは広鸛を使い、朕をここまで誘き出したのじゃな」
「……」
「じゃが断る」
郭宗はニヤニヤと笑いつつも、きっぱり言い放った。
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