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その瞬間のイスカの受けた衝撃といったら無かった。
氷の塊でガツンと鳩尾を殴られたような感覚。
これは手詰まりか? では後はもう、正面から戦を仕掛けて八日以内に勝利を収め、崔皇后の身柄を得るしかないのか?、というところまで覚悟せざるを得なかった。
しかし郭宗はそんな焦りの滲むイスカを見て、大いに喜んだだけだったのだ。
「母上様はそなたに渡さぬ。何故ならば葦切を得た後に、朕の手で水柱へと捧げるからじゃ」
「?!」
「さすれば天帝に認められし人の子の主は朕であると、広く民草に知らしめることができよう。どうしてその重要な役目を、そなたに譲ってやらねばならぬのじゃ」
「……良いのか? 崔皇后は曲がりなりにもお前の産みの母なのだろう?」
郭宗のあまりの喜びっぷりにイスカは面食らってしまったが、彼はこれまで人前では絶対に明かすことができなかった鬱憤をぶちまけ始めたのだ。
「あの母は、朕を木京から遠く離れし郭へ追放した張本人であるぞ! 父上様の政務に対する姿勢を咎めた朕が邪魔になり、実の息子を見捨てたのじゃ。その上、朕の乳母をさしたる咎も無いのに殺めた。あの時の恨み、朕は決して許しておらぬ」
それなのに崔皇后は年始の変の混乱から脱出し、郭の地までやって来てしまった。
郭宗は父母への孝行を是とする華人の常識に則り、表向きは彼女を敬う姿勢を見せていたが、生母を慈しむ気持ちなど一寸たりとも持ち合わせていなかったのである。
「大体、郭の暑さに耐え兼ねて早く木京へ戻りたいと駄々をこね、鵬挙らを焚き付けて北伐の兵を起こすよう仕向けたところからして、あの女は迷惑以外の何物でもない。水柱へ捧げることができるのならば、むしろありがたいくらいじゃ」
世の中には様々な母子がいるものである。
ここまで息子に疎まれるとは、どんな女なのか逆に気になるではないか。
そしてその答えは、この後すぐに出た。
勢いづいた郭宗が広鸛に命じ、崔皇后をこの場へ連れてこさせたからだ。
彼女にも取り巻きは多くいるし、親への忠を第一に説く霍書の教えに従えば、娘や妻を捧げるのは良くても、母君は如何でありましょうやと、したり顔で注進してくる家臣が必ず出てくる。
だからこの夜のうちに皇后の身柄を確保しておこうと図ったのだ。
郭宗の意を受けた広鸛は、闇夜を駆けて本陣へ戻り、そして崔皇后一人を連れて丘の上まで戻ってきた。
内通者であることが露見してしまった彼が今後も鵠国で生きていくためには、皇帝に忠実であるところを是が非でも見せておかねばならなかったのだろう。
そして夜中に叩き起こした彼女を身支度もろくに整えさせないまま単身連れ出すには、彼の長い舌こそが有用だったのである。
「何事かえ。妾に至急見せねばならぬものがあるとは何なのじゃ? いい加減なものなら、許さぬぞえ」
文句を言いつつも広鸛の操る馬の背から降りてきた崔皇后の姿に、イスカは目を見張った。
広鸛に急かされてここまでやってきた彼女は、皇帝の母として必要な装飾品や着物を身につけることもなく、適当に結った髪には簪一本を差しただけの格好をしていた。そして化粧もろくにしていなかったのだが、それにしても異様に老けて見えたのだ。
燕宗はもっと若かったし、娘である雪加も確か十七、八歳だったはず。
だからせいぜい四十代くらいの外見を想像していたのに、はっきり言って、これでは老婆ではないか。
髪の毛だけは真っ黒に染めているが、それでも皮膚のたるみや首筋に刻まれた皺の多さは隠せない。手の甲の血管もくっきりと浮いて見えた。
恐らくこれはウカリと同じ……いや、それ以上に年を喰っているはずだ。
「おぉ、母上様。よくぞおいで下さいました。かような刻限に母上様にご足労を願ったご無礼は、どうか平にご容赦くださいませ」
郭宗は大袈裟な身振りと憂い顔を作って母を出迎えた。
遠巻く形で立っている鄂将軍らの視線を意識しているのだろう。
郭宗はあくまで表向きは孝行息子を演じなければいけないのだ。華人とは、実に面倒な生き方を強要されている。
「……そこにおるのは誰じゃ?」
息子の傍らに立っているイスカの存在に気付いた彼女は顔をしかめた。
黒い外套に黒い頭巾。闇夜に溶け込む黒ずくめの身なりは明らかに鴉威の人間であったからだ。
訝しむ彼女に今の状況を説明するべく、郭宗は母の手を取った。
「母上様。母上様には今より、葦切の水柱の中へ飛び込み、その身を以て天と地を結ぶ役目を果たしていただくと決まりましたのじゃ」
「うん? 何を申しておる?」
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