八章 天帝の娘

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「母上様の献身により、中原は救われます。そして朕は初代皇帝である太宗(タイゾン)陛下のごとく、人の子らを治めるに相応しき皇帝であると、多くの民草に認識されましょう」 「な……?!」 「母上様を失う悲しみに、朕は胸が張り裂けんばかりではありますが、民草の暮らしを守りたいという、母上様の崇高なお志を妨げることこそ不忠ではないかと……朕は今宵涙を呑んで覚悟を決めました」  美辞麗句を駆使した息子の話から事態を理解した崔皇后は絶句し、次の瞬間、口から火を噴き出すかの如く激怒した。  足を踏み鳴らして怒り狂うその様は、イスカは知らなかったが雪加の振る舞いとまるで同じであり、幼い彼女が母の態度を目にし、それを規範に振舞っていたことを証明することになった。 「そなたはこの母をなんじゃと心得ておる?! 皇太后であるぞ!!」 「それと同時に天帝の娘でもあると、朕は認識しておりまする」 「!!」  この厄介者の母親を亡き者にできるのが、郭宗は嬉しくて堪らないのだろう。先ほどから憂い顔が綻びて、口元から本気の笑みが溢れてしまっている。  上機嫌の郭宗は、イスカのことも母に紹介した。 「母上様。こなたにおります威国の王もまた、中原を救いたいという母上様の尊きお志に感銘を受け、不当に占領せし葦切から兵を引くと申しておりますのじゃ。葦切は朕らが父祖より受け継ぎし神聖な土地。その土地が再び鵠国の手に戻ってくることを、母上様ならきっとお慶びくださいましょう。さぁ、今より共に葦切へ参りましょうぞ」  郭宗は今夜中に、葦切を手中に収める気である。母と二人であの島に籠もり、イスカが兵を引くのを見届ける心積もりだ。そしてこの女を連れている限り、イスカは手も足も出ない。  崔皇后にわざわざ事情を明かしたのは、母の絶望の眼差しを見たかったからであろう。彼の憎しみはそれほどまでに強い。  もちろんこんな企みを母に納得してもらえるとは思っていないので、彼は今からその口を塞ぎ、上から布でもかけて強引に運ぶ気なのだろうとは思う。  しかし息子の傍らに立つイスカの正体を知った途端、崔皇后の眼の色が変わった。 「威国の王じゃと……?!」  眉尻を吊り上げた彼女は、怒りの標的をイスカに変えた。 「うぬが妾を……鵠国を、全てを無茶苦茶にした張本人かえ?!」  激昂に任せ、崔皇后はイスカめがけて殴りかかってきたから驚いた。  なんとも逞しい婆様ではないか。  もちろんイスカも黙って殴られてやる義理は無いので、寸でのところでその拳を受け止め、彼女の手首を掴み上げる。 「翡翠姫がおるではないか!!」  イスカに両手の自由を奪われたまま、皇后は金切り声で叫んだ。  目を吊り上げ、黄色い歯をむき出しにして怒鳴り散らすその姿は、高貴さの欠片も無い、ただの醜い老婆でしかない。 「汚らわしき夷狄(ウーディ)め。妾ではなく、うぬの妃を捧げよ!! どうして妾なのじゃ?!」 「……」  唾を飛ばす勢いで詰め寄られても、イスカは何も答えない。  郭宗はともかく、この女にまで鴎花が偽の翡翠姫であることを明かす必要は無いはずだ。  ところが彼女の方は、そ知らぬ顔をするイスカにさらに噛みついてきたのだ。 「うぬの妃は痘痕面なのであろう?! 後宮を出て木京に潜み、長河を渡る手はずを整えている間に妾は確かに噂を聞いたぞえ。翡翠姫には醜い痘痕があると。ならば正真正銘の天帝の娘、本物の皇女ではないか」 「……え?」  この言葉にはイスカも郭宗も、二人揃って狐につままれたような顔になってしまう。 (……痘痕のある方が、本物……だと??)  二人が硬直してしまったことに気付いた彼女もまた、驚きの声を上げることになる。 「……うぬはまさか、あの痘痕娘が本物であるとも知らずに王妃にしておったかのかえ?」  崔皇后は一瞬呆けたような顔をした後、痙攣でも起こしたかのように体を不自然に揺らし始めた。 「ほぉう……どこから秘密が露見したのかと訝しんでおったのじゃが、これでようやく得心がいったわ。そうかそうか。うぬはあれが偽物と思い込んだまま王妃に……おほほほ、それはまたなんとも滑稽な……」  崔皇后は顎周りのたるんだ皮膚を揺らしながら、引きつった笑い声を上げ始めた。  天に向かって哄笑し続ける母の姿を目の当たりにし、さすがに郭宗は青ざめた。気でも狂ったのかと疑ったのだ。 「母上様、お気を確かに。朕の妹の雪加には、痘痕などありませんでしたぞ」  どうにか母を落ち着かせようとその手を掴んだ郭宗だったが、皇后はそれを乱暴な所作で払い除けた。 「生憎と雪加は妾の娘ではないぞ。あれは乳母である秋沙(チィシャ)の娘。体中に痘痕を残した鴎花の方が我が娘じゃ」 「え……?」 「そういえばそなたは妹の顔が変わっていることにもまるで気付かなんだな。まぁ、無理もない。そなたは病がうつらぬようにという口実で、半年以上も皇后宮から隔離され、その間は表宮に籠もって学問に励んでおったのじゃからのぉ」 「そんな馬鹿な?!」  信じられない思いのほうが強く、イスカはうっかり鴉威の言葉で叫んでしまった。
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