八章 天帝の娘

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「そんなことはありえない。鴎花は……本人は何も言っていなかったぞ!!」  イスカはすぐに華語で言い直したが、それは皇后の冷笑で迎えられただけだった。 「それは当然じゃ。雪加と鴎花には何も伝えておらぬ。知っているのは秋沙だけ……この秘密を守るために、妾は伽藍(ティエラ)宮の者達を下女に至るまで全て召し放ったのじゃからな」 「…………ま、まさか……そのために朕の乳母は……」  郭宗は眩暈を覚えたようで、足元をふらつかせた。  乳母が殺された時期と妹が疱瘡を病んだ年齢が重なっていることに、彼は気付いてしまったのだ。  すでに自暴自棄(やけくそ)になっていた皇后は、そんな息子の動揺を大いに嘲笑った。 「おぉ、そうじゃった。あの者だけは召し放ちにどうしても納得せなんだのぉ。給金は要らぬ、むしろ後宮で暮らすための金を払っても良いから、皇子殿下の側にいたいなどと抜かして妾に縋り付き……ふん。あの女が愚図ったせいで、余計な手間がかかったわ」  余計な手間とは些細な罪をでっち上げ、彼女を死に至らしめたことを指しているのだろう。  慕っていた乳母の死の真相を知った郭宗は、もはや顔色を失っていた。  母と呼んでいた女がまさかここまでの怪物であったと知り、怒りを通り越して恐ろしくなってしまったのだ。 「狂っておる……まさか腹を痛めて産んだ娘を、その母がすり替えるとは……」  郭宗は彼女が母親としての心を持っていないことを分かっていたはずだ。  しかしまさか顔に痘痕が残っただけでも十分過ぎるほどに辛い運命を背負った幼い娘を見捨て、息子の乳母を無実の罪で殺めるほど無慈悲であったとは、思いたくも無かったのだろう。 「……確かに雪加の乳姉妹にはひどい痘痕がありましたな。朕もたった今、思い出しました。ですが、どうして……そんなことをすれば父上様などは、かえって嘆かれましょうや」 「陛下は毎日、女どもに呼ばれてはあっちにフラフラ、こっちにフラフラと、後宮内を渡り歩いておっただけ。妾が何をしようと見ておらぬわ」  忌々しげに述べたところを見ると、夫である燕宗が他の女ばかりを愛でていたことに不満を抱いていたのかと思えたが、そうではなかった。 「陛下は壺を焼くこと以外、興味のないお方じゃ。女を抱くことは陛下にとっては後宮に安寧をもたらすための政務でしかない。故に妾にまでいらぬ情けをかけて……」 「は、母上様……?」 「どうして十四歳の少年が三十三の女を喜んで愛でることができようか!」  皇后は怒りに任せて地面を強く蹴りつけた。  彼女の不満は夫に抱かれること。それによって、あんな年上の盛りを過ぎた女にまで気を遣わねばならぬとは皇帝陛下もお可哀想に、と陰口を叩かれるところにあったのだ。 「妾は元々陛下の兄君に嫁いでおった。しかし殿下は不慮の事故で亡くなられ、そのせいで燕宗陛下が急遽皇太子に擁立され、妾はその皇后にされてしもうた」  崔皇后が二夫に(まみ)えずの大原則を破り、十九も年少の弟の妻になったのは、皇后は必ず崔氏から輩出する、という約束事のせいだった。  どういうわけだか、この当時崔家では女子の誕生が途絶えており、他に選択の余地が無かったのだ。 「陛下が律儀に月に一度、必ず通って来られる故、子を二人も産むことになったが、口さがない者どもは、高齢であることを恥もせず、よぅお褥にしがみつけるものじゃと妾を嗤い……えぇい、口惜しや。若さしか誇るものの無い浅ましき女どもをやり込めるには、陛下は美しく育った娘を可愛がるべく通っておられるだけじゃと見せつけてやるしか無いではないか」  容色の衰えを自覚する彼女は、娘を飾り立てることでしか心の平安を得られなかったのかもしれない。  全ては歳の離れた男に再婚させられたことで生じた歪み……しかしそれは彼女の都合であって、母に捨てられた鴎花のことを思えば納得できる話ではない。 「これは面白ぅなってきたのぉ、蛮族の王とやら」  崔皇后は絶句しているイスカを嘲笑いながら、髪を束ねていた簪を引き抜いた。  支えを失い長い髪がばさりと落ちて顔にかかる。皺の多さにつり合わない、黒過ぎる髪を振り乱した彼女は、もはや人の顔をしていないようにイスカは感じた。
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