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「痘痕の鴎花を皇女では無いと思い込み、それでも王妃に据えたうぬは、よほどあの醜い娘を可愛がっておったのじゃろう? ふふふ、これは見ものじゃ。王妃を天帝に捧げて民草を守るか、この地を捨てて辺境に逃げ帰るか……」
「やめろ!!」
イスカは皇后に向かって飛びかかった。
彼女が簪を掴んだ右の手首を閃かせたことに気付いたのだ。
しかし間に合わなかった。
崔皇后は簪を首に突き立てるのではなく、前に向かって蹴躓くようにしてその場に倒れたのだ。
自らの身体の重みで簪が首に深々と突き刺さり、傷口からは勢いよく鮮血が飛び出してくる。
簪を奪い取ろうとしたイスカの手は虚空を掴み、郭宗もすぐに簪を抜き取って出血を押さえようとしたが、その勢いは激しく、手の施しようが無かった。
彼女は三度ほど跳ねるように全身を痙攣させた後、ぴたりと動かなくなってしまったのである。
「皇太后様?!」
「……来るでない!」
少し離れた場所からこの様子を見ていた鄂将軍が驚き、飛び出してきそうになったが、寸前で郭宗が叫んだ。
イスカはその間に自らの外套を外し、跪いて彼女に被せた。髪を振り乱し、夥しい出血の海の中に沈んだ遺体を直視するのは、さすがに気持ちのいいものではない。
(……まさか、自害して果てるとは)
しかもその理由が、実の娘を水柱へ捧げるしか手が無い状況に追い込むためとは……どこまで性根の曲がった女なのであろう。
イスカは途方に暮れたまま、彼女の傍らから動けなくなっていた。
これから一体どうすればいいのだろう。
ただの肉の塊になってしまったこの女には、本当にもう天帝の娘としての利用価値が無いのだろうか?
この腕の一本や首では、天帝は満足してくれない?
大体、天帝とやらは、この女が自分の子孫であると、どこで判断しているのだろう。
そもそも地上を見守る龍神であるのなら、そこに子孫がいることくらい、見通せるのではないだろうか。
水柱に女を捧げる必要性なんて、本当にあるんだろうか……?
「……これで、捧げられるのはそなたの王妃だけになってしまったな」
項垂れているイスカの頭上に、疲労感の滲んだ郭宗の声が降ってきた。
この男が嫌いだと、イスカは心底思った。
今一番、考えまいとしていることをはっきり言葉にしてくるとは。
もちろんそんな感情は八つ当たりでしか無く、イスカはのろのろと立ち上がると、少し離れたところで控えていた大男に命じた。
「……蓮角、狼煙を。退却の準備をするよう皆に命じよ」
「うむ?」
背後で郭宗が怪訝そうな声を上げた。
振り返ったイスカは、その発言の意図を説明する。
「俺の和平を望む気持ちは変わらぬ故、兵は一旦北岸まで引く。だが生きた皇后の身柄が無いのであれば、葦切は譲れぬな」
「……さもあらん。水柱の上がっている葦切を今占領しても、朕とて扱いに困る。あれが収まるまでは、朕も兵を一切動かさぬと約束しよう」
それが中原を預かる者としての責務である。
国同士の争いよりも、葦切の水柱を鎮めることの方が大切で、これを軽んじたと人々に思われてしまったら、イスカも郭宗も求心力を失い、国は崩壊するだろう。
それから二人は目配せを交わし、互いの陣営へ無言で戻っていった。
それと入れ替わるようにして、崔皇后の遺体の側に鄂将軍らが駆け寄る姿がちらと見えた。天を仰いで慟哭し始めた彼らは、その死にイスカが関わっていると思い込んで、ますます憤りを増しているようだったが、もはやそんなことはどうでもいい。
僅かに明るさが加わった早暁の空に、蓮角の打ち上げた合図の花火が上がる。
イスカは狼煙と呼んでいるが、夜の闇でも見えるように、蓮角は緑色の火薬を打ち上げたのだ。
火薬の残り香が漂う中、イスカは馬の背に跨り、丘を駆け下りた。
イスカは兵を引き、郭宗はとりあえず水柱を鎮めるまでの間、兵を動かさないと約束した。
これでしばらくの間、戦の心配をする必要だけは無くなったが、心中はもちろん重く塞いでいる。
この夜が明けたら残りはあと八日。明けない夜はないと言うが、いっそ夜なんて明けなければいい。
規則正しく陽を昇らせる天の神の業すら恨めしく思いながら、イスカは王の帰還を待つ二十万の大軍の元へと馬を走らせるのだった。
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