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二.
二十万の大軍を長河の北岸まで戻すのは骨の折れる作業で、イスカはこれに五日を費やした。そして改めて陣を敷き直すと、その指揮を副将のケラに任せ、一旦木京へ戻ることにした。
戦へ行く前には臨月で、大きな腹を抱えていた鴎花が、無事に男児を出産したと知らせが入ったのだ。
今はそれどころではない心境のイスカだったが、まずは子が生まれ、鴎花自身の体調も良いとの報告を喜んだ。
しかし木京までの道程は厳しかった。
その距離は短いし、道はよく手入れされているのだが、馬に乗ったイスカが通りかかると、どこから嗅ぎつけたのか、無辜の民草が群がってくるのだ。
「陛下、どうぞこの地をお救いください」
「翡翠姫様を早ぅ天帝に捧げて下され」
水柱の出現に怯えた人々は、イスカの乗った馬の前にその身を投げ出してでも懇願してくる。
これを蹴散らして進むことなどできるはずはなく、足を止めればさらに人々が近寄ってくるという悪循環。
むしろ刃を握って襲い掛かって来てもらう方が対処のしようがある。
「道を開けよ。陛下は今よりその妃殿下の元へ行かれるのだ」
イスカの供をしていた華人の兵士がたまりかねて声を張り上げると、彼らは喜び合い、そしてイスカに対し地に頭をつけてひれ伏した。
たちまち沸き起こる国王陛下万歳の声は、恐怖に心を鷲摑みにされた彼らの、偽らざる叫びでもある。
自分達の暮らす土地を守るためならば、異民族の王を褒めたたえることすら是とする心境なのであろう。
「……」
馬上にあって、この異様な熱気を肌身で感じることになったイスカは、もはや己が抜き差しならぬ状況まで追い詰められていることを知った。
本当は天帝の娘を捧げれば水柱が収まるなんてのはただの伝説で、誰を生贄にしてもいいんじゃないかとか、そもそも本当に生贄が必要だか分からないとか、水の柱は不気味だし水量は多いが、さすがに地を埋めつくすほどにはならないだろう、などとイスカがうっかり口走ろうものなら、彼らは忽ち暴徒となるだろう。
華人の中にも、実際には起こり得ないことだと話半分で聞き流していた者はいたはずだが、噴き出す水柱を実際に目にしてしまっては、怯えることしかできない。
だが鴎花は自分が本物の皇女であったとは知らないのだ。
それが実は……と打ち明けられたところで、では葦切へ参ります、とすんなり事が運ぶだろうか。
いや、鴎花ならむしろ自分を捧げてくれと言い出しそうで怖い。
そうだ。
青い空に向かって勢いよく噴き出すあの水の柱を見た瞬間、イスカは心のどこかで安心したのだ。
鴎花が翡翠姫でなくて良かった。どれだけ皆に泣きつかれても彼女を捧げることだけは起こりえないのだから、と。
しかし崔皇后の話を聞いてしまった今はもう、そんな心の逃げ場は無くなってしまった。
イスカはこの国を治める者として、王妃を差し出すという選択肢をとるしかないと、追い詰められていたのだった。
***
次々と集まってくる人々の波をかき分けるようにして進んだイスカが、ようやく香龍宮へ戻ることができたのは、昼過ぎのことだった。
高い塀で囲まれ、かつては鵠国の皇帝が大勢の妃達を住まわせていた後宮は、今は鴉威の者達の宿舎となっているから、さすがにここでイスカの着物の裾に縋り付いて翡翠姫を、と懇願してくる者はいない。
後宮の中では比較的小さな宮殿である香龍宮は、イスカが出陣した日の朝と変わらぬ静かな様子だった。宮殿に隣接して作られた山羊小屋の前では、八仙花の赤紫の花がきれいに咲いている。
仰々しいことを好まない鴎花は、出来る限り少ない人数で子供を育てたいと希望していたから、イスカも最近になって下女と警備の者を二人ずつ増やしたくらいで、なるべく今まで通りにしてやっていたのだ。
しかしイスカがその戸を開くと、出迎えたのは警備に当たっているピトとフーイと、それに小寿だけだった。
「まぁ、陛下……よくぞお戻りで……」
自身も二カ月前に女児を産んだばかりで、乳の出も豊富な彼女は、鴎花たっての希望で乳母に指名されており、この時は二人の赤ん坊を並べて、その世話をしているところだった。
彼女曰く、鴎花はつい先程どうしても高楼へ行きたいと言って、ウカリを連れて出て行ってしまった、とのことだった。
「もう歩けるのか?! 一昨日出産したばかりなのだろう?!」
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