八章 天帝の娘

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「それが昨日一日休まれたので、もう大丈夫だと仰られまして……さぁ、殿下。父上様ですよ」  イスカは小寿に導かれて、息子の前まで案内された。  一昨日生まれたばかりの息子は、横に並んで寝かされている小寿の娘より一回り小さかったが、その手指は小さいなりにきちんと五本揃っている。そしてイスカが指を差し出せば、これを強い力で握り返した。  浅黒い肌に、大きく見開かれた青灰色の瞳。  親の欲目であろうか。生まれたばかりなのに随分と凛々しい顔つきをしているものだと感心したが、今はこの子をあやしながら鴎花の帰りを待つ気にはどうしてもなれなかった。  彼女が心配でたまらない。  後宮にいる者達にまで、先ほどイスカが潜り抜けてきたような水柱への恐怖心が伝染したら、彼女を拉致するくらいのことはしかねないだろう。  息子との対面の最中であるのに険しい顔つきになってしまったイスカを、心配そうな二つの黒い瞳が見上げていた。  小寿の息子で、三歳になる杜宇(ドゥユゥ)である。 「ほぅ。お前も少し見ぬ間に、立派な面構えになったものだな」  両脇だけに髪の毛を残し、頭頂部を剃りこぼった華人の幼児独特の髪型をした杜宇の頭を、イスカは愛し気に撫でてやった。  この香龍宮の中をちょこまか走り回っていた悪戯小僧も、妹が生まれて兄になったせいか、ちょっぴり引き締まった顔つきをしていたのだ。  イスカは幼児の頭をその大きな手で撫でてやった。 「そうだな。お前にはこの子の守り役を命じよう。王子に忠誠を誓えるな?」 「あい」  意味も分かっていないくせに満面の笑みで頷くところがなんとも愛らしく、イスカは頬を緩めた。  息子の方は問題ない。  小寿親子ならば、これからもきっとイスカと鴎花の息子に対し、愛情を持って接してくれると確信している。  そうなると、やはり問題なのは……。 「……俺も高楼へ行ってくる。後のことは任せた」  イスカは小寿に息子を返すと、大急ぎで高楼へ向かったのだった。 ***  高楼は瑞鳳宮の片隅にあり、木京でもっとも高い建物である。  一番上まで登るためには螺旋状の階段を延々と登り続けねばならない。  その階段を一周回るごとに窓が備え付けてあり、登っていくうちに見える景色が変わる。まずは木京の街を囲む城壁が見え、その上に並べた威国(ウィーグォ)の黒い旗が見え、それからただひたすら青い空だけに。  やがて上方から流れ込んでくる涼やかな風を感じられるようになり、一番高いところに、ウカリの黒い着物と鴎花が身につけた赤色の裳が並んでいるのを目にすることになった。  高楼の下から吹き上げてくる風が、華奢な鴎花の身体が揺らしている。咄嗟に最後の数段を二段とばしで駆け上がったイスカは、言葉を発するより前に彼女の身体を背後から抱き締めた。 「陛下?!」 「何をやっているんだ。まだ安静にしておくべきだろう!!」  突如現れた夫に鴎花は目を丸くしていたが、イスカだって驚いた。  鴎花の身体を抱き締めた瞬間、これまでに抱えていた不安な気持ちがすうっと晴れ渡り、手放し難い愛しさだけが込み上げてきたのだ。  なのにその想いが高じて、再会早々に叱り飛ばしてしまうとは、なんとも心の狭いことである。  鴎花の傍らにいたウカリは、そんなイスカの心境を察してくれたようで、苦笑を浮かべていた。猛き中原の王も妻の前では形無しだと、可笑しく感じたのかもしれない。  彼女はそっと会釈をし、先に階段を降りていった。  そんなウカリの足音が去っていくのを聞きながら、鴎花は心配いりません、と自分の体調を説明した。 「破水して僅か一刻(2時間)ばかりで生まれてきましたもので、私はとても元気なのです」 「そうなのか?」 「初産は時間がかかるものだと聞いておりましたのに、拍子抜けいたしました」 「……なんとも親孝行な倅だな」  柔らかい笑顔を浮かべる鴎花につられて、イスカは口元を緩める。  確かに彼女は血色も良く、元通りに腹も小さくなっていて何も問題ないように見える。 「それに産んだあとには、胃のつかえがなくなったせいなのでしょうか、とてもお腹が空きまして。それでたくさん食べて一晩寝ましたらすっかり元気になってしまったのです。ですから小寿にあの子を任せて、ここまで登って参りまして」  鴎花が悪戯っ子のような笑い方をしたその先には、広大な景色が広がっている。  初めて契りを交わした翌朝に、二人で見たのと同じ光景だ。  木京の城壁の南端を掠めるように流れている長河の、流れの真ん中に浮かぶ島から巨大な水柱が噴き出していること以外は何も変わらない。  そして鴎花がこの唯一変わったところを眺めるためにここまで登ってきたということも、イスカにははっきり分かった。  なんてことだろう。  高い塀に囲われた後宮で暮らしていれば水柱を実感することは無いだろうと思っていたのに、鴎花が自分から見に来てしまうなんて。  顔をしかめたイスカは鴎花の身体ごと向きを変えさせて、南を見ないように仕向けた。
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