八章 天帝の娘

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「見なくていい。あの水柱に捧げて意味があるのは、天帝の娘だけ。お前にはどうにもならぬことだ」 「さようでございましょうか」  鴎花は淡く微笑んでいる。  その相槌は、まるでイスカの言葉を否定しているようにも受け取れ、まさか鴎花はもう自分が皇女であることを知っているのではないかと、背筋が凍る想いがした。  もしもそうだとしたら、鴎花を止めることはもう誰にもできなくなるではないか。  イスカは激しく動揺しながらも、彼女の肩に手を置いた。  そして一言ずつ噛み締めるようにして言い聞かせる。 「あのな、お前は鴎花だ。鴎花として生きてきた。だからこそ俺は今、お前を鴎花と呼んでいるんだぞ。無理に雪加(シュエジャ)として振る舞う必要はない」  彼女が本物の翡翠姫では無いと分かり、それでも今後も王妃を務めさせると決めた後、イスカは雪加と呼ぶことを止めていた。  もちろん人前では雪加と呼ぶが、彼女も偽りの名で呼ばれるよりも、慣れ親しんだ本当の名で呼ばれる方が気持ちが良いだろうと思ったからだ。  実際、彼女もイスカに鴎花と呼ばれることを喜んでいたはずで。  なのにこの期に及んで鴎花は「私は雪加なんです」と、付き物の落ちたような、澄んだ色の目をして言い出すのだ。 「どうぞご安心ください。私はこの身を以て天と地を結ぶことができます。陛下の王妃としての役目を果たせるのです」  気負ったわけでもなく、ただ事実に裏打ちされた力強い言葉。  間違いない。  鴎花は自らが天帝の娘であることを知っている。だからこんなにも屈託のない笑みを浮かべられるのだ。 「大丈夫です。子供も無事に生まれましたし、もはや思い残すことはありませぬ」 「……ならぬ」  もはや唸るような声しか出てこない。  運命を受け入れ凛と振舞う彼女を、なんと言えば止められるのか……イスカの頭はそれしか考えることができなかった。  しかし仮に鴎花を踏みとどまらせたところで、代わりの策はないのだ。  鴎花が痘痕の浮いた手をそっとイスカに向かって伸ばしてきた。そしていつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべて、イスカの頬を包み込んでくれる。 「どうぞ受け入れてくださいませ。陛下も元はと言えば、この瞬間のために翡翠姫を望まれたはずですよ」  その通りだ。  だが、今は違うのだ。  鴎花だってそれは同じだろう。  言葉も風習も違う異民族の妻となり、共に暮らすうちに芽生えたものがいくつもあるのではないか? 息子も生まれ、これからは今まで以上に充実した日々を送れるはずだったではないか?  なのにこんなにも呆気なく、理不尽な最期を迎えていいはずがない。  一陣の風が二人を包むように吹き抜けた。  天にあって地を統べる龍の神が、早くその娘を捧げよと促しているかのように感じたが、イスカはそんな神の意志に逆らうように彼女を抱き締め直した。 「……俺がなんとかする。お前は何も心配するな」 「陛下……」 「俺はこの国の王だ。出来ないことなど無いんだ。いいな? 早まった真似だけはするなよ」  イスカが念を押しても、鴎花は否とも応とも言わなかった。  イスカの意志がどうであれ、自分があの水柱へ飛び込むしか手が無いと悟っているからだろう。   (それでもこんなこと……そうやすやすと受け入れられるものか……!!)  結局イスカは何一つ心を決められないまま、鴎花を連れて高楼を降りることになったのだった。 ***  イスカが鴎花を伴って高楼から降りてくると、その出口では先に降りていたウカリと共に、文官の(テェン)計里(ジーリィ)が待ち構えていた。  イスカが有能な華人であると目をかけ、取り立ててやった彼は、今や木京の街を預かる行政官の長として活躍していたが、この時は身につけた立派な官服が汚れることも厭わず、ただひたすらに平伏していた。  そして地に額をこすりつけ「どうか人払いを。火急の話がございます」と訴えてくるから、やむを得ずイスカは鴎花をウカリに任せて香龍宮へ帰らせることにした。  そして、計里が絶対に誰にも話を聞かれないところがいいと言い張るので、二人でもう一度高楼の中腹まで登り直し、階段の上に腰を下ろす。 「何があった? 街の者達が翡翠姫を早く捧げろとでも騒いでいるのか?」  今は計里と話をしている場合ではないのだ。  イスカが苛立った口調で問うと、彼は「それでも、です」と頭を下げたまま言った。  イスカの三段下で平伏した計里は、この傾斜のせいで、いつも以上に頭を低くしているように見えた。 「陛下、お願いでございます。どうか妃殿下を水柱へ捧げることだけはおやめください」  なんと。ここに来て初めての、鴎花を捧げないで欲しいとの懇願ではないか。  まさか華人の中からその訴えが上がるとは思っていなかったイスカは目を見張り、計里はその理由をひたすらに小さくなりつつ説明した。
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