八章 天帝の娘

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「妃殿下にとって、陛下は光なのです。その陛下のため、自ら贄になると心を決められたのでしょう」 「……」 「決断は今すぐにでも。猶予はありませぬ。もう八日目も終わろうとしております」  寝たきりの白頭翁に促されて窓の外を見れば、瓦屋根に赤い夕陽が鈍く反射して見えた。街はもうじき夕闇に包まれる。中原に生きる人々の心もまた、恐怖と不安で夜の闇より暗く、沈んでいることだろう。  イスカは無言のまま、白頭翁の居室を出た。  計里は白頭翁の元へ置いてきた。ひどく混乱している彼は、もはやこの件では役に立つまい。  鴎花が真に翡翠姫であるのなら、計里もまた彼女を捧げることを躊躇うものでは無いのだ。  この屋敷へやってきた時とは打って変わり、今のイスカは絶望の二文字しか感じられなかった。  この国を治める者としての責任は、強く自覚している。  鴎花を失いたくないのは、あくまでイスカの私情であり、為政者としてこの感情を優先すべきではないだろう。  しかし己にも周囲にも厳しくあろうと律しているイスカにとって、彼女にはどれだけ心の柔らかい部分を委ねていたことか。  この温もりを手放すことに、耐えられる自信が無い。  この地を統べる天帝は、蛮族の王が中原を治めることを許さず、イスカを苦しめる目的でこんな事態を引き起こしたのかもしれない。  ならばいっそ、イスカの命を奪えば良いものを。どうして自らの血を引く娘を贄に求めるのか……。  俯き加減で歩くイスカは来た道を戻って屋敷の裏口へ出ようとしたが、その時、馬の(いなな)きが響いてきて、顔を上げた。  そこには馬を連れて歩くアトリがいた。  普通、高級官吏の妻が自ら馬をひいて歩くことなんてしないはずだが、羊の毛を織って作った伝統の黒い衣を身に着け、銀の耳環をいくつもぶら下げたその装いは、華人の妻であることに反発しているようにも見える。  彼女は今からこの馬に乗って出かけようとしていたようだが、屋敷の隙間からイスカが出てきたことに気付くと目を見張り、馬を引いて近づいてきた。 「まぁ、イスカ。なんでこんなところにいるの?!」 「いろいろあってな。アトリは息災か?」  彼女と顔を合わせるのは、半年前、計里との婚姻の宴を開いた時以来だった。  故にイスカは何の気もなく言葉をかけたのだが、アトリは瞬時にむっとしてしまった。 「それは愚問ね。私がどうしているかなんて、あなたにはどうでもいいことでしょう。あなたは鴉威と華人が婚姻を結んだという事実が欲しかっただけなのだから」  言葉に棘があるのは、アトリがこの再婚に対し不服を抱いているからにほかならない。  まぁ、無理もないか。  言葉もろくに通じない、風習も違う初対面の男女がそう簡単に睦み合うことなどできるはずがない。イスカと鴎花が理解し合えたことの方が奇跡なのだ。  イスカは苦笑を漏らした。  今はそれどころではないが、アトリは鴉威の有力部族の出身。あまり無下にもできない。 「そうか……俺はアトリが幸せになれるように、相手を選んだつもりだったんだがな」 「私は馬にも乗れないような男に興味は無いの」  アトリが、いや鴉威の女が男を選ぶ基準は単純明快だ。どれだけ巧みに馬を乗りこなすか、力が強いか、そして家畜をどれだけ飼っているか。  その基準からすれば、文官の計里はろくでもない男の代表格なのであろう。 「全く……こんなことになるなら、北でおとなしく暮らしておけば良かったわ」  不平を鳴らすアトリに、イスカは大きく頷いた。 「同感だ。俺も今すぐにでも、全てを投げ出して北へ帰りたい」  それができれば、どれだけいいだろう。  イスカがつい愚痴を漏らしてしまったのは、同郷の人間と、故郷の言葉で話をできた心安さ故である。  しかしアトリはその甘えを許さなかった。 「そういう話をするのは、あの痘痕の王妃様だけになさいよ。私はあなたの妻ではなく臣下なんだから、あなたは私の前で強いところだけを見せるべきだわ」  鴉威の族長は強さを基準に選ばれる。  そしてその強さこそが統率力に繋がるのだから、上に立つ者は下々の者の前で常に雄々しく振る舞う。  先代族長の妻として、年若い国王を(たしな)めたアトリだったが、その直後、自分の言葉が想像以上にイスカを凹ませてしまったことに気付いたようで、小さく肩をすくめた。  そして懐から紙切れを取り出して、イスカに差し出したのだ。 「あなたがここに来ているなんて知らなかったから、たった今預かってしまったのよ」  渡された小さな紙は細く折って、結ばれていた。  誰からかと問えば、それは言えないわ、と断られてしまう。 「あなたに直接渡すのは難しいから、代わりにって頼まれてね。瑞鳳宮の壁をよじ登るより、木京の街中にあるこの屋敷へ忍び込む方がよほど楽だと思ったみたいよ。それに私なら後宮へ出入りするのも自由だし、確実にあなたに会えるし」  訝しがりながらもイスカは紙を開いた。  そして殴り書きにされた十三個の文字の羅列を目にしたのだった。 「……なぁに? あなたはその華語、読めるの?」  手元を覗き込んできたものの、アトリは文字を全く読めないから首を傾げるばかりだ。  イスカはしばらく紙切れを凝視していたが、不意に視野がぼやけてきたことを自覚した。張り詰めていた気持ちが一気に緩んだせいだ。 「……」  言葉がうまく出てこない。馴染み深い故郷の言葉を用いてさえも、この気持ちを表すのは無理そうだ。  全身の力が抜けてしまったイスカは、その場にしゃがみ込んで額を抱え、感情の昂りが収まるのをやり過ごすしかなかったのだった。
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