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こうしてイスカの操る馬に乗ってゆっくり進むこと一刻ばかり。長河の川岸に出た鴎花は、まず最初に地面が揺れているのを感じた。
水柱は大地を震わせながら噴き出しているのだ。その側へ近づくほどに水が迸る際の、おぞましい音も響いてくる。
これらの音や震動に加え、明るい時間であれば川岸からでもはっきりと水柱の姿を目にすることができるそうだ。
見えなくて良かったと鴎花は思った。
そんな恐ろしいものを目にしてしまったら、到着前に気絶していたかもしれない。
川の中に浮かぶ葦切は長河の北岸と浮橋で繋がっており、ここからは馬を降りて徒歩で渡った。島の中は岩場が険しくて馬を使えないのだ。
自分の足で歩くようになると余計に大地の震動を感じ、そして島に入ると道は一気に悪くなった。
地の裂け目から噴き出した出た水は島を縦横無尽に流れてその表面を覆いつくし、洪水を起こしているかのごとくだったのだ。
この水の流れはすさまじく、この地へ参拝に来る者達を目当てに作られた売店、それに長河を横断しようとする者達を監視するためにイスカが作ったという兵舎も、その全てが流されてしまったそうだ。
ただ唯一、裂け目のすぐそばにあった古い祠だけが無事だった。
ここだけは周囲より一段高い大きな岩の上に作られており、噴き出した水はこの岩を避けるように流れ落ちていたからだ。
注連縄を飾っただけの小さな祠だが、この前から天帝の娘が身を捧げると決まっていて、初代鵠国皇帝の娘も確かここから飛び降りたと聞いている。
しかし鴎花がこの祠まで辿り着くのは、難儀な話だった。
ただでさえ進み辛い切り立った岩の上に、今は大量の水が流れているのだ。
いくら松明を掲げてもらっても足元は見えず、これはどうにもならないと知ると、イスカは自ら鴎花を背負った。
そして祠の前までたどり着くと、この岩の上に鴎花を下ろしたのだ。
「ここから飛び込むのだな?」
ここに至るまでに気力と体力を使い果たしていたイスカは、青い顔をして鴎花に訊ねた。
この時、水柱は二人のすぐ目の前から噴き出していたのだ。
地の裂け目から天へ向けて噴き出してくる水はその勢いも強く、この祠の上へ直接に降り注ぐことはしなかったが、噴き上がる際に弾け飛ぶ水滴は、その時々の風向きで方向を変え、イスカと鴎花の顔を存分に濡らしていた。
大地を震わせる轟音に負けないよう、鴎花は叫ぶように答えた。
「その前に舞いを捧げます。天帝に私がここにいると気付いていただくためです」
こうして鴎花はこれまで付けていた面布を外し、伝承に従って天祈を舞い始めたのだ。
舞い終わるまでの間、イスカは鴎花の舞いの邪魔にならないよう、岩のすぐ下で待つと言った。
この時はまだ夜明け前で暗かったので、彼は松明を掲げて鴎花の足元を照らしてくれたのだ。
しかし鴎花のいる場所と違い、彼の立っているところには激しい勢いで水が流れこんでいる。腰のあたりに激流を受け続ける格好になったイスカは、その勢いに押されてたびたび転びそうになっていた。
もちろん供の者達も手伝うと言ったのだが、イスカはこれを許さず、彼らを少し離れた、水の流れの少ない岩の上へ退避させた。
「最期くらい、二人きりにしてくれぬか」
懇願するようなイスカの指示を受け、供をしてきた者達はおしなべて黙り込んだ。護衛として共に来ていた石蓮角などは、早くも顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっている。
「陛下……御無理だけはなさらぬよう」
岩の上に立っている鴎花は心配でならなかったが、イスカはむしろこの苦しみを鴎花と分かち合いたい様子だった。
一番近いところで鴎花を見送りたい。
それが彼の願いなのだろう。
鴎花はその意図を解すると、静かに天祈を舞い始めた。
舞い自体はそう難しいものではないし、激しい動きもない。ゆっくりと、優雅に、手指の先まで意識を集中して舞うように、と崔皇后から叱咤されたことを思い出しながら舞を捧げる。
その間も、目の前では水柱が噴き上がり続け、震動と轟音は止まることがない。
ここに今から飛び込むのだと思えば、足がすくんだ。
それでも黙って松明を掲げてくれるイスカの為、鴎花は懸命に天への祈りを捧げる。
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