八章 天帝の娘

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 しかし彼の想いは、多くの者達が覚えた安堵にとどまらなかった。 「そうか。あやつは雪加を捧げたのか……」    それしか手が無かったことは、郭宗だって分かっていた。  しかしイスカの様子を見ていれば、彼がそれだけは阻止したいと願い、故に危険を冒してまで郭宗に会いに来たことは明らかだった。  彼がそうまでして妹を大事に思ってくれたことについては、深く感謝している。  郭宗は痘痕面の鴎花のことを醜い容姿の女孺としか認識していなかったし、それ以上の感想を抱いていなかったのだが、病を得たせいで実の母から疎まれ、臣下に身を堕とした薄幸な妹が、わずかな間でも彼に愛され幸せに暮らしてくれたのなら、それは喜ばしいことだと思う。  これまで上がっていた轟音が止まり、葦切は嘘のように静かになってしまっていた。  その様子を郭宗が対岸からじっと見つめていると、斥候が火急の知らせを運んできた。  なんと水柱に飛び込んだのは威国(ウィーグォ)の王妃だけでなく、国王も一緒だったというのだ。 「なんと……あの男が……」 「なんたる好機!」  郭宗の傍らに控えていた(エァ)鵬挙(ホンジュ)が、この知らせを聞き、膝を打って歓声を上げた。 「これぞ天帝が我らにもたらしてくださった僥倖でありましょうや。今なら勝てます。陛下、どうぞ長河を渡れとのご命令を。木京を取り戻しましょう!」 「ならぬ。今そんなことをしては、朕は人心を失う」  郭宗は即座に鵬挙の意見を退けた。  威国の人々は、その身を以て民を守ろうとした翡翠姫の姿を目の当たりにし、強い敬意を抱いたはずだ。  郭宗がそんな彼女の想いを無下にして戦を仕掛ければ、いくら祖国を取り戻すための戦いとはいえ、鵠国軍は悪役にされてしまう。 「しかしあの僭王亡き今なら、我らは間違いなく勝てます。我らの都を取り戻すことに躊躇うことなどありましょうや」  長河を渡り、父の仇を討つことを生涯の目標に据えている鵬挙は、憎いイスカが死んだことしか見えていないようだ。  もちろん郭宗とて早く木京を取り戻したいという気持ちは、鵬挙と変わらない。  中原は華人(ファーレン)のもの。いつまでも辺境の蛮族に好き勝手にされてはたまらない。  しかし彼は皇帝だった。戦術を語ればよい将軍とは違い、もっと多角的に物事を捕らえることを求められていたのだ。 「全軍に伝えよ。兵を引くのじゃ」 「陛下!!」 「朕らは今、不慮の死を遂げられた母上様の喪に服している。喪が明ける前に戦さを行うは不忠である」  郭宗は目を血走らせた鄂将軍を封じるべく、心にもない理屈を平然と並べ立てた。 「向こう三年は国力の増強に努め、それから後に改めて川を渡る。それでよいではないか、鵬挙」 「そんな……」 「いずれにせよ、我らの補給線は伸びきっている。これ以上の進軍は無理だったのじゃ。それはそなたもよくよく分かっていよう」  元はと言えば、崔皇后が木京へ帰りたい一心で鄂将軍ら主戦派の将軍らを焚き付けて始めた戦だった。建国したばかりの鵠国には余力が無く、望むと望まざると、二十万もの大軍を率いての戦は難しかったのである。 「補給なら、木京を攻め落とした後に集めればよいではありませんか」  鵬挙は諦めきれずに尚も食い下がったが、主君から冷たい目で睨まれただけだった。 「ではそなたは朕に都で略奪をしろと申すのかえ」 「それは……」  実を言うと鄂将軍自身はそれをも辞さない構えだったのだが、郭宗は祖国を取り戻すことよりも、木京の民の平穏な暮らしを守ることを優先した。  年始の変の折、鴉威の兵士らは瑞鳳(ルイフォ)宮では大暴れしたが、無辜の民草が暮らす街中には一切手を付けなかったのだ。  郭宗は自分達が蛮族以下の振る舞いをする事態だけは避けたかったのである。  こうして主戦派の鄂鵬挙が項垂れながら下がると、郭宗は側にいた(ズイ)広鸛(グゥンガン)に声をかけた。 「広鸛。そなたはもう一度、威国の王と連絡を取れ。この先の和平について前向きに話をしたい」 「し、しかし……かの者はもう……」  広鸛は戸惑ってしまった。彼もまた、斥候からの知らせを郭宗と共に聞いていたのだ。  水柱にその身を捧げている男とどうやって連絡を取れと言うのか。  しかし郭宗は小さく首を横に振った。 「朕にはあの男が王妃愛しさのあまり、考え無しに水柱に飛び込んだとは思えぬのじゃ」  何か裏がある。  そう読んだからこそ、郭宗は撤退を決めた。  ここで渡河を命じたところで、失うものの方が多いのではないか?  冷静に状況を読んだこの時の判断のおかげで、結果的に郭宗は明君としての地位を確立した。  彼は初代皇帝太宗に並ぶ偉大なる皇帝、鵠国中興の祖として、後世まで長く崇められることになるのだった。
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