八章 天帝の娘

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四.  水柱は地の割れ目から噴き出していたが、その割れ目の底がどんなものであるのかは人々に伝わっていない。  実は深く大きな亀裂が果てなく続いており、この底に溜まった水が噴き出していた。  そしてこの亀裂の途中には一ヵ所だけ空洞があり、ここには葦切(ウェイチェ)の西岸、つまり川の上流側の、最も切り立った崖の隙間から中に入ることができた。  自然にできたものではない。  元は光が差し込む程度の隙間であったものを、人が立てるくらいの大きさにまで人為的に広げた形跡が、その岩肌の随所に残っている。  水柱が止まった後、この空洞には三人の荒い息遣いだけが響いていた。 「た、助かった……」  表にいる人々が漏らしたものとは意味が違うが、全く同じ呟きを口にしたアビは、自分と兄、そしてその妻が無事に生きていることを確認すると同時に、声を裏返して激怒したのだった。 「八哥(パーグェ)まで飛び込むなよ!! 俺はこいつ一人だと思って準備してたのに、二人も飛び込んだら網が破けるに決まってんだろ!!」  アビは予めこの空洞に待機し、大地の割れ目を横断するように、網を張っていたのだ。  水柱の上に通しているが、目の粗い網なら水の流れを邪魔することはない。大地の裂け目は広いが、飛び込む場所は祠の前からと決まっているから、狙って網を張っておくことができる。  こうして地上から飛び降りてくる鴎花(オウファ)を助けようと準備していたのである。  ところが、予想に反して兄まで一緒に飛び込んできたものだから計画が狂った。  その重さに耐えかね、亀裂の岩肌に設置していた四隅の留め金のうち、三つが瞬時に弾け飛んでしまう。残り一つだけで辛うじて二人が奈落の底へ落ちるのを防ぎ、アビも慌ててこの網の端に飛びついた。  そしてこれを引き上げることになったのだが、これがもう、想像を絶する荒行で。  そもそも大人二人をアビ一人の力で引き上げるのは無理だったのだ。  網にぶら下がった格好のイスカはすぐに近くの岩肌に足をかけて自分の体重を支えてくれたものの、地の底から噴き出してくる水柱に叩きつけられて、思うように上ることができない。  アビはもう何度、これは無理だと諦めかけたことか。  しかし鴎花の足に網が絡みついたせいで、彼女が腕の力だけでぶら下がる必要が無かったこと、水柱の噴出が途中で止まったこと、陽が高く昇っていったため、頭上から差し込む光が徐々に増えて、亀裂の内部の岩肌が見えるようになったこと、などの幸運にも助けられ、二人が飛び込んでから一刻(2時間)近くたった後、何とか亀裂の中腹にある空洞まで上がってくることができた。  しかし下手したら最後の留め金まで外れて、網を掴んだアビもろとも、地の底まで落ちるところだったのだ。  心身ともにくたびれ果てたアビが、兄に文句を言うのは当然である。 「本当にもう!! なんでこうなるんだよ!! 俺はまだ死にたくないんだ!! 勘弁してくれ!!」 「……網を張って待っているなんて、そんなことは書いてなかったぞ」  弟に噛みつかれたイスカは、肩で荒い息をつきながら反論した。  その顔は蒼白で、ガタガタ震えている。  長い時間宙吊りになり、死と隣り合わせだった恐怖によるものだけではない。長く水柱に打ち付けられたせいで、体温がすっかり奪われてしまったのだ。  その傍らでは鴎花も同じく体を震わせていたから、アビは予め用意していた大判の布巾をその頭に被せてやりながら頷いた。   「あぁそうだよ。あんまり詳しく書いたら、八哥は読めないだろ。だから俺は八哥が読めそうな文字だけを使って、本当に必要な事だけを短く書いたんだ」  鴎花を深く愛しているイスカのことだから、生贄として彼女を捧げることを躊躇っているに違いない。  そう思ったからこそ、アビは葦切へ向かう直前に木京にいるアトリを訪ね、兄への伝言を書いた紙切れを渡した。  让他走吧,我会把她好好带回来。 (彼女を捧げろ。俺が助ける)  それだけ書いておけば、イスカならきっとアビからの伝言だと気付き、鴎花を生贄に捧げてくれると思ったのだ。  中原が水で覆われてしまうと怯える人々の手前、贄を捧げる格好を見せる必要があった。下手に彼女を助けるつもりだのと公表すれば、人々はますます混乱し、手に負えなくなるとアビは読んだのだ。 「俺も水柱が上がったって聞いたのが、ちょうど四日前でさ。その時は木京(ムージン)の北、三百里(約120km)ほどの場所にいたんだぜ。そこから宿場の馬を乗り継いで、夜通し走って駆けつけたってのに、そんなにしっかり準備できるわけないだろ!」 「あの……」  終わる気配のない兄弟の言い争いの間に、鴎花は布巾を被ったままおずおずと割り込んだ。 「どういうことですか、これは?」  先ほどから鴉威の言葉が飛び交っているので、鴎花にはその内容が理解できなかったのだ。  とりあえず命が助かったらしい、ということ以外、さっぱり分からないようだ。  褐色の肌をした異母兄弟は、このもっとも過ぎる訴えを受け、互いに顔を見合わせた。
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