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「……そうだな。まずはお前が無事だったことを喜ぶべきだな」
狭い空洞の奥には灯明を一つ置いているし、地の裂け目から差し込んで来る光もある。
イスカは改めて鴎花を見つめるとその身体を愛しげに抱き寄せ、その隣で肩をすくめたアビは胡坐をかき直した。
そして今の状況を華語に切り替えて語り出したのだった。
「結局、水柱にまつわる伝承ってのは、全部が嘘だったんだよ」
「え……?」
「誰が飛び込もうが飛び込むまいが、水は勝手に止まる。その事実を知っていた崔氏が我らは天帝の子孫でござい、って大法螺を吹いたのが始まりだ」
アビはこの話を雪加から聞いたものだと前置きしてから話をした。
崔家は長く木京付近の土地を治めていた豪族で、葦切の岩の割れ目から数百年に一度、水柱が上がることを知っていた。
どうしてそんなものが出てくるのか。
理屈なんて分からないが、葦切だけが周囲と違う種類の切り立った岩で構成され、遠くから見れば川の中腹に盛り上がっているように見えるところから考えるに、この地の真下では火山の溶岩のようなものが蠢いていて、この亀裂から一定周期で噴き出しているのかもしれない。
とにかく崔家は水柱をそういう自然現象として認識していた。そして水柱が上がった時には一族の娘を贄として捧げて鎮め、それをもって自分達が天帝の子孫であることの証明とした。
「神の子孫である崔家は栄え、やがては木京付近を治める国まで作った。でもその国は初代鵠国皇帝に滅ぼされてしまった」
旧王朝の姫として殺されかけた隼国の皇女は、太宗の前に引きずり出された際、自分を殺せば天帝の代替わりの折に捧げるべき娘がいなくなると脅したのだ。
太宗は河南の出身で、最初はそんな伝承をまともに信じていなかったが、隼国の旧臣らを取り込む目的もあり、彼女を皇后にした。
すると即位の数年後、本当に水柱が上がったのだ。
この時すでに皇后自身は病で亡くなっていたが、彼女に教えられたとおり娘を捧げると、これが収まった。
以来、太宗は皇后には必ず崔家の娘を立てることを子孫に伝え、さらには隼国の家臣であった霍子を重用した。
そして彼の著書である霍書により、人々は天帝への畏敬の念を常に学び、それに伴って崔家の者達を特別視し続けることになった。
初代の崔皇后は祖国が滅んでも、実質的に自分達一族が栄え続けるように仕組んだのだ。
「ここの空洞は生贄として捧げられた娘を助けるため、崔家の者達が作ったんだ。こんなものが存在していること自体、崔家が生贄なんて本当は必要無いと知っていた、って証明しているだろ?」
崔家の者達にとって水柱への生贄は、自分達が神の子孫であると証明するための儀式でしかなかった。
自分達の娘を無為に殺したいわけでもなかった彼らは、ちゃんと脱出路を用意していたというわけだ。
「この話は皇帝も知らない。代々の崔家の人間と、皇女だけに口伝されているんだ。それで雪加も皇女として崔皇后からちゃっかり教えてもらっていたけど、あんたは全然聞いていなかったんだろ?」
アビに問われ、鴎花は頷いた。
痘痕面の彼女は元々皇女として扱われていなかったし、万一水柱へ捧げるような事態になったとしても、皇后は助けてやるつもりなんてなかったのだろう。
「天帝の娘は、本来なら崔家の者達が手を尽くして助けてくれることになっているけど、年始の変で崔家の一族は絶えてしまった。当然誰も助けに来てくれないから、放っておけば贄として捧げられた者は本当に死んでしまう。それが嫌だ、助けてやれって雪加が言ったんだ」
「……姫様が私を助けたいと……?」
今はもう、雪加が皇女でないことを知っていたが、鴎花は今までの癖でそう呼んでしまった。
アビはそれを聞いて小さく笑った。誇りだけで生きている彼女を、今でも皇女として扱ってもらえるのは嬉しい。
「あぁ。翡翠姫でもない偽物の分際で、中原を救ったと勘違いされて皆から崇め奉られるなんてとんでももない。だから命を助けてやり、贄にもならぬ存在だと証明してやれってさ」
本来鴉威の地で暮らしていたはずのアビだが、実は辺境地では揃わない物資を調達するため、こっそり中原の街へ買い出しに来ていたのだ。
それに同行していた雪加と共に水柱の出現を知ると、ここまで全力で駆けてきた。
雪加は買った荷物と共に宿屋に残してきた。乗馬を習い始めたばかりの彼女では、葦切まで走り続けるのは無理だったからだ。
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