八章 天帝の娘

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「分かってる。俺が勝手に鴉威を離れるのはいけないよな。でも燕宗(イェンゾン)がさぁ、このままじゃ材料が足りなくて焼き物を作れないって言うんだよ。これでもあの皇帝陛下は何も無いところから頑張って、窯を作るための煉瓦を焼くところまではこぎつけたんだぜ。けどさぁ石灰石が鴉威には無いんだ。あれが無いと煉瓦同士がくっつかなくて登り窯を作れなくて」  良い焼き物を作るためにはどうしても高温を生み出す登り窯が必要であり、石灰石以外にも必要なものはたくさんあった。やむを得ずアビは買い出しのため、冬が終わるのを待って南へ出て来たのだ。  これに雪加がついてきたのは、これから夏に向けて乳ばかりで腹を膨らませることになる鴉威の食事に早くも飽きてしまい「そなただけ中原に戻って米を食べてくる気か?! 妾にこんな臭いものを飲ませておいて、それは卑怯であろう!!」と駄々をこねたせいである。 「まぁ、燕宗の見張りについては、三哥(サングェ)にくれぐれもよろしくって頼んであるから大目に見てくれよ。俺も買い出しが終わったらすぐ戻るからさ」  三哥とは鴉威の地に残って暮らしている、アビとイスカにとっての異母兄である。温厚な性分の兄は弟が一族の長になることに文句をつけることもなく、今も羊や山羊と共に穏やかに暮らしているのだ。  愛嬌を絡めてアビが頼むと、イスカもその件については不問にしてくれた。  アビが雪加と一緒に街へ出て来てくれたおかげで、鴎花が助かったのである。文句を言うわけにもいかないだろう。 「それで話は戻るけど、どうして八哥まで飛び込んだんだよ? 意味が分かんねぇんだけど」  改めてアビが問うと、イスカは青くなった下唇を突き出し不満を露わにしつつ答えた。 「水柱を目の前で見上げたら、その勢いが思った以上にひどかったから驚いたんだ。あんな恐ろしいものに飛び込めとは、随分と無茶苦茶な話ではないか。それで鴎花が舞っているのを見ている間に、だんだん腹が立って来てな」 「は?」 「お前が助けると言っているとはいえ、どうして鴎花をこんな危険な目に遭わせなきゃいけないのか理解できない。それにこの国の連中は、俺の王妃を差し出せと、当然のことのように要求してきたが、それもおかしいだろう。だからもしも俺に王としての威が備わっていれば、こんな危険な手段を取らずして、皆を黙らせることができたんじゃないかと思ったんだ」  イスカは王としての絶対的な威を得るため、自分も水柱に飛び込むことに決めたらしい。  どれだけ善政を施こうと、武力を誇示しようとも、いつまでも付き纏ってくる夷狄(ウィーディ)の王という称号を乗り越えるために、こんな無茶苦茶な試練を与えた天帝を逆に利用してやろうと考えたのだ。 「そんな……」  話を聞いた鴎花は、なんと無謀なことをしたのかと絶句し、アビも彼女と同じく猛抗議した。 「いや、それは危険すぎる賭けだろ?! 俺がどうやって助けるのかも分かって無かったくせに。下手したらこの国は突然王を失って大混乱に陥るところだったんだぞ!」 「お前が助けると言ったんだから、必ず助けてくれるものだと信じていたんだ」  弟に対する全幅の信頼。  全く……イスカは狡い男だと思う。敬愛する兄にそこまでの想いを示されたら、アビはそれ以上何も言えなくなるではないか。 「それにアビが鴎花を助けたとしても、生贄になったはずの女が戻ってくるなら理由が必要なはず。その点、俺が一緒にいれば、いくらでも言い訳してやれる」  イスカがそう言った時、地の裂け目の上部から人の声がいくつも聞こえて来た。  その言葉から、どうやら鴉威の者達のようだと知れる。  アビはそれを見上げて感嘆の声を上げた。 「へぇ。さすが鴉威の者だな。華人なら恐れ多くて覗き込むこともできない地の裂け目なのに、みんなは乗り込んででも八哥を探す気だぜ」  しかし上から見ているだけでは、暗がりになっているこの空洞の存在やそこにいる人間のことは全く捉えられないようだ。  この空洞から地上までは、距離にしておよそ十丈(約33m)はあるのだ。  岩陰から見える黒衣の男達は縄を下ろそうと相談しているようで、そのうち華人らもその輪の中に加わり始めた。 「あぁ、みんなが八哥を探してる……八哥は王として、皆に必要とされてるんだな」  アビは黒い瞳を細めた。  威国は安泰だ。それは彼らの必死な様子を見ていたら分かる。  天帝に認められた王として、これからイスカの名は中原の隅々にまで響き渡るだろう。そして偉大な王を輩出した鴉威の名も、必然的に高まるはずだ。  鴉威の民としての誇りを強く抱いているアビにとって、こんなに嬉しいことは無い。 「みんなに呼びかけてやれよ。俺はもう行くからさ」  アビは荷物をまとめた。自分がここにいた形跡を残すのは良くないから、持って来たものは全て回収する。鴎花に渡していた大判の布巾さえとりあげた。  アビさえいなければ、後はイスカがいいように話を作るはずなのだ。 「アビ、ありがとう。お前のおかげで助かった」 「よせよ。俺が八哥のために働くことは当然のことだぜ」  改めて礼を言う兄に対し、照れくさそうに応じたアビだったが、それではイスカが申し訳なく思うかと考え直し、褒美をねだることにした。 「あぁそうだ。じゃあ褒美に木京へもう一度入る許可をくれよ。雪加に木京の街で売ってる翡翠饅を買って帰る約束をしてるんだ」 「そうか。では、後で米も送ろう」 「そりゃ助かる。飯のことでは毎日文句ばっかりで、手がかかるったらもう……」  これで兄とはまた長い別れになる。アビは努めて重苦しくならないよう明るい口調で兄とその妻に別れを告げた。  そして細い岩の隙間から、眩しい光の溢れる崖の外へと抜け出る。  元々切り立った岩が重なっている断崖絶壁の西側斜面には人も近づかないのだ。外は明るいが、目立たずに移動できるだろう。  背後からはイスカが地上へ向けて大きな声を上げるのが聞こえて来た。それに対しての湧き上がるような歓声も。  その声を聞いて微笑を浮かべたアビは、荷物を背負い直すと葦切と北岸を結ぶ浮橋を目指して、険しい崖をよじ登ったのだった。
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