八章 天帝の娘

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***  鴉威の習慣では命名は生後五日以内に、華人も七日目に名を付けるのが一般的なのだが、イスカは王子が生まれてから十日も経ってから、ようやくリーテェと名付けた。  華語では日雀と書く。  鴉威の民と華人の、両方の血を引く子なので、それぞれで通用する名を付けたのだ。 「この名はあの日、水柱の前で舞うお前の姿の先にあった、美しく輝く朝日にちなんでみたんだ」 「リーテェ。なんと良い響きでしょう」  遅ればせながら息子の名を決めた二人は、可愛い我が子を見つめながら微笑み合った。  水柱が引いた翌日、イスカと鴎花は揃って木京へ戻ってきた。  これまでは水柱に捧げられた天帝の娘が俗世に戻ってくることは無かったので、華人達は驚いていた。  もしや天帝には中原に子孫が住んでいると伝わっていないのではないか、それなら近いうちにまた水柱が噴き出すのではないかと危ぶむ者もいたが、そういう声は異民族の男が一緒に飛び込んでしまったせいだろうという推論で抑え込まれた。  これまでにない事態になっているのは、あり得ないことが起きたせいなのだ。  イスカ本人も、天帝に会って王妃を返してもらってきた、そなたを中原の王として認めるとの言葉を賜ったのだと説明した。  現に二人が戻ってきているのだし、わざわざ文句を言う必要も無い。  この後すぐに鵠国との正式な和平を結ぶ交渉で忙しくなってしまったこともあり、結果として誰もが現状をありのままに受け止めることになったたのである。  こうしてイスカは今日も一日の政務を終えて、香龍(シャンロン)宮に敷いた絨毯の上で寛ぎ、王妃の淹れた茶を飲んでいた。  手にしているのは霍書(フォシュ)である。  華人の子供なら、生まれて一番最初に目にする書物であり、多くの者が暗唱しているものの、いまだ文字を覚えきっていないイスカが読みこなすのは難しい。それでも華人の心を知るためには欠かせない書物であるため、こうやって僅かな時間にも学ぶようにしている。  鵠国との間に成立した和平はもって三年。その間に郭宗は内政に勤しみ、北伐の兵を挙げる力を蓄えるつもりだろうが、威国はその上をいかねばならない。  向こうが太刀打ちできぬと諦めるほどの強固な国を作る。そのためにもイスカが華人達ともっと心を通わせることは重要になるのだ。  読書に励むイスカの傍らでは、息子が懸命に寝返りを打っていた。今朝、初めてできるようになったのだ。  本人はその成長ぶりを父に見てもらいたいようで、先ほどから手足を突っ張り、上手にごろんとひっくり返っては、イスカを自慢げな目で見上げてくる。   「ほぅ、大したものだな、リーテェ。たった一日で随分上達したではないか」  イスカは書物を脇に置くと、青灰色の瞳の息子を抱き上げてやった。そうしないと、イスカの膝先に置いていた茶碗が、息子の身体でひっくり返されてしまいそうだったのだ。  イスカは膝に座らせた息子のふっくらとした頬に顔を寄せると、ちょうど飲み終えた茶碗を下げに来ていた鴎花に話しかけた。 「さすが、赤ん坊というのは滑らかな肌をしているものだな」 「私と似なくて良かったです」 「いや、お前の肌の痘痕は、実は龍の鱗の名残なのではないかと、巷では噂されているそうだぞ」  天帝は龍の神。  蛇にも似た細長い体は鱗で覆われているため、その末裔である鴎花に鱗の痕があってもおかしいことはない。  イスカは膝の上にいる幼い息子にも話しかけた。 「なぁ、リーテェ。お前の母はその見た目通り、紛うことなき天帝の娘なのだ。お前も誇らしいだろう」 「そのような噂……陛下が言わせているのでしょう」  鴎花の苦笑交じりの問いかけに対し、イスカは口元を緩めて誤魔化した。  誰が噂をばらまいたかは重要ではない。要は多くの者がそのように感じてくれればそれでいいのだ。  中原を救った翡翠姫が痘痕を得ていることは、いまや誰もが知っている。  かつて流れていた翡翠姫が見目麗しい姫であるという噂は、あれは心の美しさを表したものだったのであろう、と勝手に解釈されたようだ。  近頃ではそんな鴎花に会いたがる人も増え、彼女もまた痘痕を気にすることなく積極的に表へ出るようになっていた。  可愛い息子を育てつつも、病気の者の手当てや、孤児の世話をする慈善事業を立ち上げようと動き始めたところである。  イスカが王として力強く民を率いていく傍らで、彼女は人々を労わる柔の面を担ってくれている。  なんと得難い王妃なのだろう。  イスカは目を細めて鴎花の頬に手を伸ばすと、その凹凸の多い肌に触れた。 「もう誰もお前の痘痕を嗤わぬ。いや、むしろ誇りに思う」  これから鴎花はイスカの王妃として、世継ぎの王子の生母として、堂々振舞ってくれたらいい。 「全て陛下のおかげですよ」  本人は淡く微笑んで言うが、イスカは鴎花を見出しただけで、素質を秘めていたのは彼女自身だ。  翡翠姫の名は、彼女と共に輝きを増していくだろう。  そんな鴎花の隣に自分が立てることを、イスカは何より誇らしく思うのだった。 (おわり)
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