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表宮と後宮。
この二つの宮に跨るように位置するのが、かつての鵠国皇帝の住まいである鳳凰宮だ。
しかしイスカはこの宮殿を自分の住居としては使っていない。
質素な生活を信条にしているイスカは、私室として表宮の部屋を一つ占有するので十分だったので、このだだっ広い宮殿は、共に鴉威の地から駆けてきた兵士らの宿舎に当てていたのだ。
その他の後宮の宮殿も、その大半を同胞らの宿舎にしている。
年始の変で後宮を襲い、働いていた者のほとんどを召し放ったため、場所が余っていたこともあるが、言葉が通じない異民族の兵士が街中で華人らと共に暮らせば、衝突が起こるに決まっている。ある程度互いの存在に慣れてくるまでは、華人と鴉威の者達が必要以上に接することが無いよう気を遣ったのだ。
そんなわけで鳳凰宮の中にある、元は皇帝しか出入りできなかった後宮への渡り廊下は、今や鴉威の者達が我が物顔で出入りしていた。
夕方、地下牢から出てきたイスカとアビも、この細い渡り廊下を抜けて後宮に入った。
「頑固爺ぃめ」
格式ばった表宮から艶やかな雰囲気の溢れる後宮へ足を踏み入れてからも、アビはまだ顔を歪めて文句を言っていた。
二人の歩く足元の小径には、石畳が敷き詰められていた。鵠国の歴代皇帝は大勢いる寵姫達に、それぞれの宮殿を持たせており、それらはこの石畳の小径でつながっていた。
彼女らは皇帝の足が自分に向くよう、宮殿を囲う垣根にも趣向を凝らして美しい花を植えていたため、石畳の上を歩く二人の足元では連翹が目にも眩しい黄色の花を、少し目線を上げれば木蓮の木が赤紫色の花をいくつもつけて、爽やかな香りを漂わせていた。
しかしいきり立っているアビは、花になんて一切目を向けず、唾を飛ばしながら憤怒の言葉をまき散らすのだった。
「八哥がわざわざ足を運んでいるのに何なんだよ、あの威張り腐った態度は! あんな爺ぃ、早く殺そうぜ!」
「だが、信天翁の手腕は得難いものだぞ」
「手腕なんてどうでもいいさ。華人はあの通り、どいつもこいつも狡猾で、傲慢で、自分達がこの世で一番偉いと思いこんでる糞みたいな連中なんだ。生かしておく価値もない」
「お前がそこまで言ってやるな。華人の気持ちも少しは理解してやれ」
どんどん過激な方向へと思考が偏っていく弟を案じてイスカが嗜めると、アビは顔を真っ赤にして噛みついてきた。
「俺は鴉威だ。あいつらとは違う!」
年若いアビには頑ななところがある。
華人の母を持つがゆえに、華人に近いと思われるのが嫌で、必要以上に自分が鴉威の民であることを強調してくるのだ。
イスカはそんな弟を宥めるように、短く刈り込んだ黒髪をぽんぽんと撫でてやった。
「落ち着け、アビ。俺はむしろ華人の血を引くお前に期待しているんだぞ。お前のような存在が増えて、この国を華人にとっても鴉威にとってもいい方向へ導いてくれれば望ましい」
鴉威だの華人だのと、いちいち意識しなくてもいい世界。それこそがイスカの理想なのだ。
しかしアビは口を尖らせた。
敬愛する兄に期待されるのは嬉しいものの、子供扱いされて丸め込まれた格好になっているのは不服だったのだ。
顔を膨らませた彼は、兄を揶揄するように言った。
「ふうん。それで八哥はあの女にご執心なんだな。毎晩毎晩、飽きずに通っちゃってさ」
「仕方ないだろ。天帝の娘とやらを孕ませるには、こっちが励むしか手がない」
イスカが王妃の元へ通うのは、政治的意図があってのことなのだ。そこには惚れた腫れたのような、下世話な感情は無い。
淡々とした兄の言葉で心が落ち着いたアビは、少し頬を緩ませた。まさかイスカが本気で痘痕娘を愛でているとは思っていなかったが、王に即位して以来、あまりに律儀に通うのを見ていたから、少し心配になっていたのだ。
「天帝の娘ねぇ……どうも胡散臭い話だけどな。だってさ天帝ってのは水を司る、全身鱗だらけの、細長い龍の格好をした神様なんだろ。それが人間との間にどうやって子を成すんだよ」
「はは。そりゃそうだな」
「それに天の神様の子孫が地上にいるっていうなら、寒波とか干ばつとか、そういうのは全部無しにしてくれたらいいじゃないか」
「同感だ。俺達がこうやって木京を占領している時点で、華人達を加護する天帝が空の上にいないことを証明してしまっている」
鴉威の民には天帝のような絶対的な神がいない。万物には神が宿るという淡い自然崇拝を行っている。だから華人らの考え方は理解しがたいのだが、それでも彼らは天帝を信仰しているのだ。
その娘を正妻として娶ることで華人達が少しでも納得するなら、それくらいは付き合ってやろうとイスカは思う。
もしもイスカがもっと年を食っていて、既に正妻や子を得ていたのならこの意見は変わったかもしれないが、まだ若くて妻帯もしていなかったから、その点はちょうど良かった。
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