二章 夷狄の王

7/17
前へ
/150ページ
次へ
 そんな美しい花をつけた枝の向こうには、かつて鴎花や雪加が住んでいた伽藍宮の姿が見える。  後宮の中で最も美しく、最も華麗な宮殿と謳われた宮殿だが、今では鴉威の兵士らの住まいとなり、彼らの手で盛大に荒らされているようだ。その庭園とて例外ではなく、彼らの連れ込んだ馬達の放牧場となっていた。今も浮き島の対岸では葦色の毛並みの馬が二頭、長い尻尾を振りながら池の水を飲んでいる。  鴎花はそんな馬達に見つめられながら、浮き島の岸辺に腰を下ろした。  皇女が自ら洗濯を行うなんてありえないこと。  しかし鴎花は華美を嫌うイスカの命令で、女官らと変わらない木綿の着物を着ていた。加えて雪加とは背格好も同じなので、池の向こうから見られたところで正体が露見することはないだろう。これだけ距離があれば、雪加の美しさも鴎花の醜い痘痕面もそう大して変わるものではない。  鴎花は慣れた手つきで襷がけをし、袖を絞った。  これでも洗濯は得意なのだ。  通常は身分の低い下女の仕事であるが、醜い容貌の鴎花は人前に出すのはみっともない、と雪加の母である(ツェイ)皇后から疎まれ、その存在が目立たぬように部屋の掃除や洗濯ばかりをさせられていたからである。  天気は良かった。このところ晴天続きで空には雲一つ見当たらない。  鴎花は灰汁(あく)で汚れを洗い落とすと、綺麗になった着物や下着を竹竿にかけて干した。この天気ならすぐに乾くだろう。  イスカが身につけている黒い衣は、木綿の着物と違い羊の毛から作った糸で織ってあるため分厚くて乾きにくいが、これだけ暖かければ問題ないはず。  鵠国(フーグォ)では国の頂点に立つ者なら黄袍(こうほう)という特別な絹の長衣を着るのが慣例だが、彼はそんな裾の長い着物は歩きにくいと言って、これまで通りの黒衣しか身に着けない。  着飾ることで偉ぶろうとしないところが、鴎花としては好感を覚える点だが、しきたりにうるさい人達は余計なことを言いそうだ。  鵠国には三百年近く続く長い歴史があり、その間に培ってきた面倒な取り決めも多い。無駄を嫌うイスカは、さぞや衝突しているだろうと心配になる。  この平穏な暮らしを用意してくれたイスカに、鴎花は感謝していた。  名ばかりの王妃であるがゆえに、食事以外の身の回りのことは全て自分達でこなさねばならないが、それでも衣食住で足りないものは無いし、こうやって自由に陽の光を浴びることもできるのだから、部屋の中に軟禁されているよりよほど良い。  しかし雪加はこの浮き島に来てからというもの、やたらと機嫌が悪かった。鴎花に対しては、今朝のように手を上げることも増えている。  元々我儘な性格ではあったが、平手で女官の顔を打ってくることまではしなかったのに……一体どうしたことなのだろう。  理由を聞けば「そなたがあの男を殺めてこなかったからじゃ!」と叫ぶように言った。 「それは申し訳ありませぬ。ですがあの化粧筆も部屋に入る前に取り上げられましたので、私にはどうしようもなく……」 「何をぬけぬけと開き直る。そなたが隠し通さぬから悪いだけであろう! 大体、なぜ王妃になることをそなたはあっさり認めた?! 妾は皇族を皆殺しにしたような輩の妃になるなど、死んでも御免じゃぞ!」  雪加が般若の形相で怒り狂う時、あぁ、あの対応は悪かったな、と鴎花も反省する。  そう。イスカから皇族の殺害を聞かされた際、鴎花は為政者としての彼の厳しい一面を知り、圧倒される思いでうっかり頷いてしまったのだ。  その淡白さはイスカにも不審がられたし、雪加の悲嘆ぶりを目にすれば、これくらい激しく抗議するべきだったか、と悔やんでしまう。  こういう些細なところから、入れ替わりが露見してしまうかもしれない。これからは本物の皇女らしく、皇帝や皇后との思い出話なども挟んでいくべきか。  雪加だってこんな危なっかしい影武者を間近で見ているから、もどかしい思いを抱えているのかもしれない。それでついうっかり手を上げてしまうということなら、納得がいく。  家臣として、少しでも姫君の心が安らぐように努めなければ……と、鴎花が思案し始めた時、部屋の中からは再び甲高い怒鳴り声が響いてきた。 「鴎花!! 床に菜っ葉の切れっ端が落ちておるぞ! 彼奴(きゃつ)が手掴みなんかで食べるからじゃ。全く! 蛮族とはなんと下品なことか!」  鴎花は飛び上がった。  彼女の声が橋の向こうに詰めている兵士にまで聞こえたところで、叫び声の主については誤魔化せるが、発言内容は言い訳できまい。  確かにイスカは食べ方が汚いし、作法もなっていないが、何も大声で非難するようなことではないのに……雪加はどうしてこんなに苛立っているのだろう。 「すぐ参ります! すぐ片付けますから!」  鴎花は慌てて立ち上がると、洗濯物もそのまま投げだし、雪加のいる家の中へと戻ったのだった。
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加