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三.
イスカにとって理解できないことの一つに、華人らがとる昼休憩がある。
彼らは日が一番高くなる頃仕事を中断し、家から持ってきた弁当を食べるのだ。
遊牧民である鴉威の民は一日二食しか食べず、従って昼休憩という概念が無い。山羊や羊は連れ出したら絶えず辺りを見張っておかないと、狼に食べられてしまうし、迷子になるのも出てくる。
呑気に食事休憩をとれるのは、農耕民族ならではの習慣なのだろう。
イスカは寛容なところを見せるため、華人らのやりようには口を挟まず、むしろ自分も昼餉というものを一緒に食べてみようと挑戦したことがあるのだが、それはすぐに止めた。
イスカがいると官吏達が緊張して休憩にならないし、食事中は微妙な空気になるのだ。
華人の行儀作法は面倒くさい。
貴人ならば魚は骨より上の身だけを食べろとか(裏返してまで食べるのは意地汚いから)、出された食事を全部食べ切るなとか(食べ足りないという合図になってしまうから)、汁物を吸う時に音を立てるなとか(音が汚いから)、茶碗以外の皿は手に持って食べるなとか(これはもはや理由不明。そういうもの、らしい)……。
何よりイスカは箸が苦手だった。
どうして細長い棒切れ二本で小さな豆粒を摘まめるのか、全く理解できない。
鴉威の料理は基本手づかみか、椀に直接口を付ける。補助的に匙を使うことはあるが、箸なんて使わない。
しかし瑞鳳宮の料理人達は鴉威の料理を知らないので、これまで通りの宮廷料理しか作らなかった。
おかげでイスカは豪華だが複雑な料理に挑むことになり、食べ方が汚い、という華人達からの白い目に晒されるのだ。
そんなわけでイスカはこのところ、昼の間だけ政務室を抜けだすようにしていた。
そして浮いてしまった時間は表宮の中にある自室に籠もり、アビに助けてもらいながら書類を読んでいる。華語での会話はアビの母から教えてもらったのである程度できるが、文字に慣れないので報告書を読むのには時間がかかるのだ。
今のところ文章での報告があれば文官らに音読させているが、しかしできることなら王自ら書面を読んで、理解できるようにしたいではないか。
これは中原を治めるために必要な事。
イスカは文句も言わずに奮闘している。
「ふぅ……お前はよくこんなものが読めるな」
苦労してようやく一枚の報告書を読み終えたところで、イスカは感嘆の声を上げた。華語は文字の一つずつがおかしな形をしていて、それぞれに意味があるのだ。その数ざっと十万。一朝一夕に覚えきれるものではない。
傍らでは黒い瞳の異母弟が肩をすくめていた。
「俺は小さいうちに母から叩きこまれたからさ。道徳書である霍書の暗唱は士大夫の基本。そなたは辺境育ちと侮られぬようにせねばならぬ、って、そりゃもう毎日勉強漬けで」
士大夫というのは科挙という難関試験を突破した官吏のこと。この試験さえ通れば、武官を上回る高い役職に就けるので、鵠国では勉学が盛んだった。
アビの母は鵠国の出身だったので、子供に勉強させるのは当然という意識があったのだ。
「俺は書を読むより馬に乗っている方が好きだし、霍書の内容なんかもう忘れたいんだけどさ、頭にこびりついて離れないんだよな」
物理的な刺激を与えたところで記憶が無くなるわけではないのだが、アビは自分の頭をしきりに拳で叩いている。
「いや、お前が勉強してくれていて本当に助かってる。俺一人じゃこんなにたくさんの文字を覚えられないし、読むこともできない」
威国が治めているのは今のところ長河の北側、河北地域だけで、旧鵠国の半分の領土なのだが、それでも各地から送られてくる書類の量は多い。華人達に読ませることで余計な情報を与えてしまったり裏切られたりするのは怖いので、鴉威の人間が直接に文字を解することはとても重要なのだ。
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