二章 夷狄の王

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「さて……少し早いがそろそろ戻るか。午後からは文官達との打ち合わせだったな」 「あぁ。税務官からの報告がある」  今年の税は一切無しと決めたが、来年からは納めさせることになる。  誰からどのくらい徴収するのか。  鵠国は民に重税を課していたから、それよりは安くしたいところだが、その匙加減と仕組みが難しいので、今から時間をかけて決めていきたいと思っている。  イスカはアビを連れて政務室に戻った。  政務室は表宮の中にある、三十人くらいが集まれる中規模の部屋で、一段高いところには王が座るための椅子と机が用意されている。  政はここに文官らを集めて話を聞き、イスカが決裁していく形を取っていた。  イスカはすぐにも仕事を始められるよう、彼らが昼休憩を終える前に政務室へ戻っておくことにしたのだが、部屋に入ってみて驚いた。  誰もいない部屋の四方の壁に、午前中まで無かった文字が書き連ねてあったのだ。  天地有正氣  雜然賦流形  下則為河嶽  上則為日星  於人曰浩然  沛乎塞蒼冥  皇路當清夷  含和吐明庭  時窮節乃見  一一垂丹青  白い壁を大きな屏風と見立てたように、太い筆と墨で殴り書きされた文字は、イスカにはまるで読めなかったが、その乱雑な文字の勢いから悪意だけは感じ取れた。 「……なんて書いてあるんだ?」  目にした瞬間に顔をしかめたアビを見れば聞くまでも無いことだったが、イスカは一応解説を求めた。 「これは確か『正気(せいき)の歌』っていう詩だよ。鵠国の初代皇帝、太宗(タイゾン)がそれまで中原を治めていた隼国(スングォ)を滅ぼしたときに、その国の臣下だった男が亡国への忠誠心を表すために読んだものだな」 「ふうん……で、そんな詩がこの部屋に書かれているということは、隼国とやらを鵠国になぞらえ、鵠国を鴉威に置き換えて考える不届き者がいるということだな?」 「まぁ、そういうことだろうな」  頷いたアビは、すぐに消させるよ、と言って部屋を出て行った。亡国への忠誠を誓った詩なんて、残しておくわけにはいかない。  弟が行ってしまい一人部屋に残ったイスカは、読めない文字の羅列をじっと見つめ続けた。  こんなものを書いたって、文字の読めない鴉威の民には通じないのに。  いや、王が文盲であることを嘲笑っているのか?  今、瑞鳳宮に出仕している華人達は、諸手を挙げて喜んでではないにせよ、新しい為政者におとなしく従うつもりなのだとばかり思っていたが、実際のところはそうではなかったということだ。  イスカは鴉威の民の居住地を木京の街と切り離したように、華人達を過度に刺激しないような施策を選んできた。  木京を落とした後の三ヶ月間でイスカは長河の北側に十六ある郡を制圧して回ったが、各地の長官らは今もそのままの地位に留めて日常業務に当たらせている。文治主義を掲げた鵠国は地方に軍隊をほぼ置いておらず、戦わずに降参した者が多かったせいでもあるが、これは華人らに混乱を生じさせない為の配慮でもあった。  同じく、都にいる官吏にも地位と給与の保証をしているから、望めば彼らは今までどおりの暮らしができるはずだ。  大体、イスカが王を名乗っているのも華人達に譲歩した結果なのだ。  中原では古代より、国の支配者は皇帝と呼ばれてきた。皇帝とは、神である天帝に代わって地を()べる、という意味がある言葉。  その皇帝の呼称を異民族が使えば、華人達から反感を買うことは避けられない。そこで一段下の位である王を名乗ったのだ。  しかしイスカの配慮は、彼らの心には届かなかったようだ。  昼休憩を終えた文官らが、一人二人と執務室へと集まってきた。  彼らは皆一様に壁に書かれた文字に驚いていたが、目を丸くする者達の中にこれを書いた犯人がいるのかもしれない。おろおろした表情でイスカの顔色を窺いながらも、夷狄(ウィーディ)の王に侮蔑の目を向ける輩が。
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