二章 夷狄の王

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 ほどなくしてアビが、掃除道具を携えた華人の下男らを連れて戻ってきた。 「跡形を残さずに消せ」  イスカは敢えて鴉威の言葉で命じた。途端に彼らは互いの顔を見合わせて戸惑ってしまうが、分からないなら覚えたらいいだろう。こいつらも異国語を使う苦労を少しは知ればいいのだ。 「消せないのなら壁ごと壊してもいい。こんな無駄に広い宮殿、少しくらい壊れたところで俺は気にしない」  イスカはざわつく華人らをその場に残して、部屋を出て行った。  こんなむしゃくしゃした気分では、政務を行う気になれないではないか。  ではどこへ行くのか。  少し迷った後、イスカは地下牢へと足を向けた。 「八哥(パーグェ)!」  アビが表宮の廊下を走って追いかけてきた。華人達に先程のイスカの命令を通訳してやっていたから、遅れたのだろう。  イスカはむくれた表情のまま言った。   「俺は今日はもう、何もしてやらないからな。気分が悪い」 「それだからって、あの爺ぃに会いに行くのかよ?」  仏頂面の兄が地下牢への石段をずんずん降りていくから、アビは不思議そうな口調で尋ねてきた。  これだけ苛ついている時に、わざわざあんな胸糞悪い老人に会いに行こうという意図が分からないのだろう。  しかしイスカはこの際だから徹底的に華人というものに関わりたい気分になっていたのだ。  今なら華人の性根を、配慮と言う名の曇り無しに見られるはず。  ならば華人らの代表格ともいうべき、あの老人に会っておくべきだと思ったのだ。 ***  イスカはアビと一緒に地下への階段を降りて行った。  薄暗くひんやりとした石造りの牢は、空気も淀んでいて決して気持ちの良い場所では無かったが、信天翁(シンティェンウォン)は今日も変わらず瞑想中。  落ち着き払ったその態度は彼の豪胆かつ、高邁な人格から来るものなのだとこれまでは感じていたが、単に蛮族ごときの虜囚になっている己の現状から目をそらすための逃げの手段であったのかもしれない、とイスカは思った。  牢屋番の兵士から預かってきた鍵を使ってイスカは単身、彼の牢の中に入った。  本来なら中に入るのは危険すぎる行為だが、相手は老人だし、イスカは腰に長剣を帯びている。それに念のためアビを牢の外に残しているから問題ない。  そんなことより重要なのは、この老人の態度であろう。  イスカがすぐ側にいるのに、今日もまた頑なに目を向けようとしないのだ。 「おい、信天翁。今日はお前と腹を割って話をする為に来てやったぞ」  イスカは胡坐をかいて座ると、頑固な老人の背中に向かって語りかけた。 「今更なんだが、お前が俺に仕えることができない理由を、きっちりと聞いたことが無かったと思ってな。なぁ、どうしてお前は俺に仕えるのを良しとしないんだ?」 「……」 「俺は無駄を省いて租税も安くして、人々が暮らしやすいように国を強く導く。鴉威の者だけでなく、華人にとっての良き王となれるように努力もしよう。お前はそれより他に、王たる者に何を求めている?」  すると禿頭の老人は、イスカに背を向けたまま口だけを開いた。 「ぬしに仕えぬ理由など語るまでもない。ぬしが蛮族だからだ」 「その蛮族とは何なのだ? 俺達には蔑まれる覚えなんて無い。華人とはその暮らしぶりが違うだけで、同じ人間だ」  イスカの答えに対し、信天翁はようやく振り向き、そして目を開けた。老人の内側から溢れてくる感情が、皺を刻んだその重い瞼を持ち上げたのだ。 「ほう……この風雅な都へ来てもなお、髪を結うこともせず、髭も生やさず、さらにはそのように品のない黒衣を着用しているようなぬしに、未だ賤民(せんみん)の自覚が芽生えぬとは。驚きを禁じえぬ」
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