二章 夷狄の王

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霍書(フォシュ)に書いてある言葉だよ。(きみ)(きみ)たらずとも、(しん)(しん)たらざるべからず。つまりダメな君主であっても、臣下としての忠義は尽くすべき、という意味だ」 「馬鹿か、お前は」  アビの解説を聞くなり、イスカは吐き捨てるように言った。  この宰相は己の仕える皇帝が君、君たらざる存在、つまり上に立つ器ではないとあっさり認めたのだ。  それでも忠節を誓うと開き直る。これが馬鹿な行為でなくて何だと言うのか。  しかし信天翁は「これこそが臣下としての行い。その崇高な心は、夷狄なぞには理解できまい」とむしろ胸を張った。  つまりこの老人は異民族という存在を蔑み、尚且つ忠誠心を貫く己に陶酔しているにすぎないのである。 「……要するに、お前はどうあっても俺のような蛮族には仕えぬということなんだな」  最終確認である。  失望したイスカの声音が無機質なものに切り替わったことには、信天翁も気付いたはずだ。いや、蛮族風情がどんな感情を抱こうが、彼にとってはどうでもよいことなのか。 「そのとおりである。変節漢として歴史に名を残すくらいなら死を選ぶ。夷狄に従うつもりは無い」 「ならば死ね」  立ち上がったイスカは剣を抜いて振り上げた。  禿頭の老人はそれでも動じない。代わりに彼がつぶやいたのは正気の歌。 「天地有正氣  雜然賦流形  下則為河嶽……」  信天翁ほどの士大夫であれば、恐らく全文を暗唱していたはずだ。しかし彼はこの詩を最後まで唱えきれなかった。  イスカが老人の皺首に長剣を叩きつけ、その胴と頭を永遠に切断したからである。 ***  あんな干からびた老人であろうとも、間近で首を切り落とせば、鮮血が飛び散るものだ。  斬った張本人だけでなく、牢屋の外にいたアビまでが信天翁の返り血で汚れてしまったが、黒い瞳の弟はそれでも喜んでいた。 「あれは死ぬべき男だったんだ。八哥は良い決断をした」  鴉威の王たる者、こうでなければいけない、とアビは言う。  苛烈な決断は、凍てつく北の大地で生きる一族を導く上で重要なこと。  華人のように法律や道徳に則って、行動をがんじがらめにされた指導者はいらない。  果断即決。必要な判断を必要な時に下せる男こそ、鴉威では高く評価されるのだ。 「俺達に(なび)かない華人なんて、どんどん殺したらいいんだ。繰り返すうちにあいつらも気付くさ。自分達の支配者は誰なのかって。そうすれば言う事を聞く奴だけが残る」  アビの言葉にはイスカも頷いた。  人を斬った手応えで心が昂ぶっていて、自分の感情が荒っぽい方へ偏っていることは分かっていたが、それでも確かにイスカはこれまで華人達に優しくし過ぎたようだとは感じていた。  鴉威こそが支配者なのだ。  もっと一方的に命じられるはずなのに、イスカが華人達を慮ったがために、彼らをつけ上がらせてしまった。  そういえば、文官達には広く人材を登用するようにと命じているのに、いつまで経っても優秀な華人を連れてこないではないか。  彼らは長ったらしい奏上文を並べることばかりに熱を入れ、ろくに実務をこなさないのだ。やったことといえば壁に詩を書き、イスカを詰っただけ。  なんだか急に全てが白々しくなってきた。  いっそ父の言うとおりに、こんな国を治めることは放棄して故郷に帰るべきか、というところまでイスカの思考は飛躍していた。  華人は逆襲してくるかもしれないが、例えば再起不能な程に木京を焼き尽くしておけば、この国も立ち直るまでに時間がかかるだろう。それなら鴉威は安泰だし、ここまでイスカに従って来た兵士も喜ぶ。  どれだけ努力したところで夷狄の王にしかなれないのなら、蛮族じみた荒い手を使ってもいいではないか?  牢屋番達に遺体の処理を命じた後、地上へ戻ったイスカは「……王妃の元へも行くかな」と呟いた。  華人らをとことん追及するのであれば、この際だから彼女の本性も暴いてやろうと思いたったのだ。  大国の皇女としての権威を身に纏い、一向にイスカに馴染もうとしない彼女もまた、信天翁と同じような考えの持ち主なのだろう。  どうせ飾り物の妃だ。  天帝の娘だなんてことはどうでもいい。そんなものはただの伝説なのだし、翡翠姫を得たところで華人達がイスカに心を開かないのなら、殺したって同じではないか。 「よし。俺は王妃のところへ行ってくる。お前は表宮に戻って、さっきの詩を書いた奴を探し出してこい。処分は追って伝える」 「分かった」  こうして弟と別れたイスカは、穏やかな午後の日差しに背中を押されるようにして、伽藍(ルイフォ)宮の庭園の池に浮かぶ小さな島へ一人で向かったのだった。
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