二章 夷狄の王

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「……どうやら俺は、考えが直線的になっていたようだ。進むべきが困難な道であることは分かっていたはずなのに、反抗する者ばかりとやり合っているうちに、気持ちが荒んでしまった。だが……そうだな。風習や着るものが違っても、お前のような者もいるんだ。俺ももっと柔軟な気持ちを持つべきだったな」  イスカはしみじみと反省の弁を述べていた。  彼に何があったのか、鴎花には分からない。  ただ異民族を治めることには、鴎花の想像もつかぬほどの苦労があるのだろうと思う。  それもイスカの場合、辺境の蛮族と侮られるところから始まるのだ。嫌な思いもしているに違いない。  そんな時に寄り添ってくれる人がいるだけで、どれだけ救われるか。  鴎花が秋沙(チィシャ)の存在に救われたように、今度は鴎花がイスカの力になれるのなら、とても嬉しい。 「陛下はきっとお疲れなのでしょう。私の知る限り、毎日政務ばかりで、休みを一切取っておられないではありませんか」  柔らかい笑みを浮かべた鴎花がいつにも増して優しい言葉を口にできたのは、側に誰もいない気楽さも原因の一つだった。  普段は鴎花が翡翠姫にあるまじき行動をしないよう、侍女に扮した雪加が睨んでいる。このようにイスカと二人きりで話をできる機会は、意外と少ないのだ。 「父上様は政務の合間に、景徳(ジンデェア)寺へよく行かれておりましたよ。陛下も息抜きに何処かへ出かけられてはいかがでしょう」  ここは翡翠姫らしく父親の話でもと思い、鴎花が燕宗(イェンゾン)の話題を口にしたところ、彼は湧いてきた感情を煙に巻くように、すうっと目を細めた。 「景徳?」 「はい。木京(ムージン)の北にある寺なのですが、かの地には良き粘土があり壺を作るのに最適なのだそうです。父上様は壺を作るのがお好きで」 「あぁ、そういうことか」 「え?」  鴉威(ヤーウィ)の言葉で呟いたイスカが何かに納得したような表情をしたから、鴎花は意味が分からずきょとんとする。 「いや……お前の父親の場合、合間というより遊びの方が多かったと聞いているんだがな」 「それは……」 「お前は俺を堕落させる気か」  珍しく冗談を口にしたイスカが微笑む。  つい先程まで冷淡な目を向けられていたので、それが解消されただけでも嬉しくなる。  そして彼は鴎花に向かって手を伸ばしかけたが、その手の甲に返り血がこびりついていることに気付くと、直前で動きを止めた。  こんな汚れた手で触れるのは良くないと、躊躇ったのだろう。  それは兎も角として、この直後彼は予想外の行動に出ることに。  その場で衣服を脱ぎ、佩びていた長剣もその場に置き、下帯一つの姿になって池の中で体を洗い始めたのだ。 「え……」  驚き過ぎた鴎花は、ただただ顔を赤く染めることしかできなかった。  華人(ファーレン)の男は人前で衣を脱がないし、そもそも後宮育ちの鴎花は男性の裸体を見慣れていない。  それが褐色の肌をした、引き締まった体躯であれば尚更戸惑うではないか。 「まぁ、そうだな。たまには遠乗りもいいか。お前も連れて行ってやろう。ずっとここにいるのも飽きただろ」  イスカは鴎花の硬直にも気付かず、水の中から呑気に話しかけてくる。  鴉威の民にとって、体を洗うといえば水浴びなのかもしれないが、これは刺激的に過ぎる。  鴎花は堪え切れなくなって背を向けた。  そして袖口で顔を覆ったまま、おろおろしていたら、不意に苦笑交じりの声が背後から響いてきた。 「ほう……人と話をする時に背を向けるのは、華人の習いか?」 「!!」  振り返って袖口から顔を上げれば、目の前にはぼたぼたと水の粒を垂らし続ける裸形の男がいた。  彼は陽の光を浴びて煌めく水滴と共に、濡れた短髪を片手でかき上げていて、そんな仕草までが眩しかった。  彼の首元に光る細い銀糸を編んだ首飾りまでが、その艶めかしさを駆り立てている。これまでは黒衣の下に隠れていたから、そんなものを着けていたことにすら鴎花は気付いていなかった。 「何を今更。これくらいは見慣れているだろう?」  イスカも性格が悪い。鴎花が顔から火を噴くのを楽しむように、これ見よがしに己の体を寄せてくるのだ。 「み、見慣れてなど……いつもは灯りを消しておりますし……ひっ!」  耳朶をひょいと甘咬みされ、鴎花は素っ頓狂な声と共に身を震わせた。その反応がよほど面白かったのか、イスカは口元をニヤつかせる。   「悪い。あまりに赤いから、(なつめ)と間違えた」 「……陛下がそんなに意地の悪いお方とは思いませんでした」  恥ずかしさのあまり袖口に顔を埋め、拗ねた口ぶりで訴えると、イスカもまた蒼い瞳を細めて鴎花を抱き寄せ、その黒髪に口を寄せた。 「俺もお前がそんなに可愛い反応をする女とは、知らなかったな」 「あ……」  そんなに愛し気に抱き締められたら、鴎花はもう、自分の身をどう処していいかも分からなくなるではないか。濡れて冷たいはずの彼の身体すら、熱く感じてしまう。 「あの、陛下……」 「あぁ、そうだ。前から思っていたんだが、その陛下というのはやめろ。イスカでいいと言っただろ」  この際だからと訴えてくるイスカに対し、すっかり気持ちの舞い上がっていた鴎花は真っ向から異を唱えてしまった。
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