二章 夷狄の王

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「そういうわけには参りません。常の夫ならいざ知らず、陛下はこの国の国王でいらっしゃいます。そのようなお方を呼び捨てにするのでは、下々の者に対し示しがつきません」 「そういうものか?」 「そういうものです」  鴎花がきっぱりと言い切ると、イスカは押し黙ってしまう。  言い過ぎてしまったかしら、と不安になった鴎花が袖口の影からちらと見上げてみると、彼はくしゃみが出そうで出ないような、なんとも言えない微妙な表情を浮かべているところだった。 「いや……官吏達が同じことを言っても聞く気になれないのに、お前が言うと心に届くから感心していた」  イスカは鴎花を連れて、自分の脱ぎ捨てた衣の上に腰を下ろした。  そして鴎花を背後から抱きしめると共に、痘痕の浮いたうなじに口を寄せた。 「お前は不思議な女だな。翡翠姫としての威を誇示することもあれば、俺を労る優しさも見せる。一体どちらが本物なのか……」  疑問を紡ぎながらも彼の唇が痘痕を辿るように動くから、鴎花はすっかり恐縮してしまった。  こんなに明るいところでは蟾蜍(ヒキガエル)の如き醜さも、しっかり見えているはず。  そのおぞましさをイスカに我慢させるのは申し訳ない。  だがこんなに愛し気になぞられてしまうと、彼が本当に痘痕を嫌がっていないのではないかとうっかり期待してしまいそうだ。  そんなことはありえないのに。  この痘痕は(ツェイ)皇后を始め、雪加や大勢の女官らに忌み嫌われてきたのだ。  イスカがためらわずに触れてくれるのは、鴎花のことを天帝の娘だと思い込んでいるからで……。 「……どうも視線を感じるな」  イスカに言われて顔を上げると、池の対岸に佇む馬達と目が合った。紅色の美しい花を咲かせる木蓮の木の下で草を()みながら、こちらを物珍しげに眺めている。 「場所を変えるか」  その意見には鴎花も賛成だが、家の中には雪加がいる。  まだお姫様気分でいるはずの彼女とイスカを鉢合わせさせるわけにはいかない、と鴎花が躊躇った時、何の前触れもなく家の引き戸がガタガタと音を立てた。  はっとして振り向けば、開いた戸の向こうには、まさにその雪加が立っていた。  ひどく腫れぼったい目をした彼女は、寝乱れて胸元が少しはだけていた。  鴎花と同じく木綿の粗末な着物を身に着けているものの、雪加自身の持つ美しさも手伝って、海棠(かいどう)の眠り未だ足らずと表現するに足る、艶めかしい容姿である。  しかしこれでは直前まで昼寝をしていたことが一目瞭然。女官が主を放り出して居眠りしているなど、ありえないことだ。  その上、彼女はイスカを前にしても女官としての辞儀を施そうとしなかった。  彼が明るいうちからやって来たことに驚き、咄嗟の振る舞いができなかったのだ。
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