82人が本棚に入れています
本棚に追加
幕間
雪加は耳を塞いで蹲ったまま、その場から動けずにいた。
梯子を上げてしまった二階から響いてくるのは、明らかに二人の男女が絡み合っていると分かる振動と、女の上げるあられもない嬌声。
(汚らわしい……!)
雪加はあまりのおぞましさに、身の毛を逆立てた。
二人が二階へ上がってから、もう一刻以上の時間が過ぎているが、ずっとこの調子だ。
あの男は夷狄だけに鴎花を這いつくばらせ、獣のようにその身体を貪っているのだろう。それに対し鴎花も破廉恥な声を発して、男の劣情を煽っている。
イスカへの嫌悪感はもちろんのことだが、雪加は今や、鴎花が憎たらしくて仕方なかった。
あの愚かな娘はイスカの振る舞いに流され、自分が翡翠姫を演じていることなんて、綺麗さっぱり忘れているに違いない。
中原の宝玉とまで謳われた高貴な皇女が、蛮族相手にあんなはしたない声を上げるはずもないのに……どうして男に嬲られてなお、あんなに悦べるのか……。
様々な想いが胸の中を駆け巡るうちに、雪加の目には涙さえ浮かんできた。
(本当に……なんと情けないことか!)
雪加が溢れ出す感情で身を震わせていると、戸が開く音がして、男が一人、訪ねてきた。
アビだ。
沈みかけの夕陽を背負って部屋に入ってきた黒衣の青年は、長剣を一振とイスカの着衣を手に持っていた。それは雪加が鴎花の言葉に従わず、表に出しっぱなしにしていたものである。
彼の出現により、雪加の目に浮いていた涙はすぐに引っ込み、代わりに視線だけで殺せるほどの険しい目つきになるが、アビはそれと張り合うように剣呑な視線を向けてきた。
「おい、八哥は? 着物だけじゃなくて、剣まで外に放りっぱなしってのは、どういうことだよ?!」
アビは敬愛するイスカの身を案じるあまり、手にした兄の長剣を雪加の喉元に突き付けんばかりの勢いだった。
まだ少年臭さが抜けない小柄な男だが、その黒い双眸には、すでに歴戦の兵士らしい苛烈な光が宿っている。返答次第では即刻雪加を斬り捨てかねない勢いだ。
ところが彼が荒らげた声を上げたその直後、建屋全体が揺れた。
元々楼閣だったこの建物は、壁として戸板を打ち付けただけなので、少しの振動でもすぐに揺れるのだ。
「え?」
ぎょっとしたアビが天井を見上げると、それに呼応するように明らかに女性のものだと分かる甘い喘ぎ声が漏れてくる。
「……おいおい、まだ日暮れ前だぜ。何やってんだよ」
一瞬で事態を理解してしまったアビは表情を弛緩させると同時に、脱力してしまった。
「俺は命じられたとおりに働いてたのに、自分だけお愉しみだなんて、そりゃ狡いってもんだろ。なぁ?」
アビは馴れ馴れしく話しかけてきたが、雪加は完全に無視した。氷塊を削ったかのような冷たい表情を浮かべて横を向く。
「言付けじゃ。今宵はこのまま泊まる。明日からきちんと働くから今日は許せと」
明らかな棒読みでイスカからの言葉を伝えるには伝えたものの、本音を言えばこの男とは同じ空気も吸いたくなかった。
今、こうして向かい合っているだけで、雪加の胸には屈辱と痛みと恐怖と、その他諸々の負の感情が沸々と込み上げてくる。
あの夜にこの男から受けた仕打ちは、今尚、雪加の心を打ちのめしていた。鴎花に手を上げ、八つ当たりするくらいで晴らせるわけがないのだ。
しかし偶然にも、アビの方もこの時、同じ夜のことを思い出していた。
褐色の肌をした蛮族の青年の顔に、雪加とは真逆の感情が広がっていくのがありありと見て取れた。
「ふうん……じゃあ、お互いの主がお励みになってるってことは、俺達は今日もまた、揃って暇になったってことだな」
最初のコメントを投稿しよう!