三章 山羊の乳

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三章 山羊の乳

一.  イスカが鴎花(オウファ)の作った握り飯を気に入ってくれたのは嬉しいことだったが、一つだけ困ったことになってしまった。  あの時、料理が趣味、と咄嗟にでまかせを言ってしまった為に、イスカが「そういうことなら、これから俺の飯はお前が作れ」と言い出したのだ。無駄が嫌いな彼は、何もしていない鴎花にも仕事を与えて(本当は浮き島の中で掃除も洗濯もしているけれど)働かせようと考えたのだ。  しかし浮き島は狭すぎて、調理施設を置くだけの広さが無い。 「それなら、お前が厨房まで行けばいい」  島から出る許可があっさり出たので、鴎花は本当に彼の食事を作ることになってしまった。  しかしこの話を翌朝、イスカが出ていった後に鴎花から聞かされた雪加(シュエジャ)は、大いに怒った。 「どうして皇女が下女のごとく飯炊きなどせねばならぬのじゃ! ふざけるのも大概にせよ!」 「ご、ご安心くださいませ。そのようなことを姫様にはさせませぬ。全て私がいたしますから」 「当然じゃ!!」  騒ぎ出す主を宥めようとした鴎花の頬を、雪加はまたしても平手で打つ。  それがこれまでとは比べ物にならない強い力だったから、鴎花は衝撃で床の上に転がってしまい、呆然として主を見上げた。 「ひ、姫様……?」  痛みよりも、自分が全力で叩かれたことへの驚きの方が強い。  しかし鴎花を見下ろす雪加は、これまで見たこともないほどに口をひん曲げ、目を血走らせていたのだ。 「よくものうのうと口をきけるものじゃな。昨日は日の高いうちからあれほど淫らな行為を繰り返したくせに……」 「あ……」 「あれだけの声を上げておいて(わらわ)に気付かれておらぬとでも思ったか。そなたの耳障りな声を聞くたびに、(はらわた)が煮えくり返るようじゃったわ」  雪加の指摘に、鴎花は赤面した。  まさかあの甘い声が階下まで届いていたとは。  羞恥のあまり鴎花はその身を縮ませたが、しかしあれはイスカのせいなのだ。  彼はこれまでの淡白な抱き方から一転し、鴎花の敏感なところに触れては、体を震わせて上ずった声を漏らす様を楽しんだ。  しつこすぎるくらいにそう、何度も。  しかしあの時は、イスカだけが熱くなっていたわけではない。  鴎花もまた、天窓から差し込んでくる光に照らされたイスカに見惚れていた。  引き締まった端正な体つきも、組み敷いた鴎花に向ける彼の蒼い瞳も、全てが熱を帯びていて……特に褐色の肌に玉のような汗が浮いている様は、心を奪われるのには十分すぎる代物で、鴎花は幾度我を忘れたことか。  痘痕を恥じる気持ちも、偽物の翡翠姫としてイスカを欺いているというやるせなさも、己を貫くイスカの振る舞いの前では全てが無力だった。  それは今、ほんの少し思い出しただけでも、体の奥底が疼いてしまうほどの情熱で……。  雪加の手前、そんなそぶりを見せてはいけないと堪えたつもりだったのに、彼女は敏感に鴎花の変化を感じ取ったようだ。  雪加は眉間に青筋を浮かび上がらせ、わなわなと唇を震えさせた。 「蛮族に身を汚されて悦ぶとは……なんとあさましきおなごであるか……!」 「お、お許しくださいませ」  鴎花は床に頭をこすりつけて詫びた。  例え不可抗力だったにせよ、階下にいる主を不快にさせてしまったのだから、詫びる以外に今の鴎花には手がない。 「……」  雪加はしばらくの間、鴎花の頭を踏みつけんばかりに睨みつけていたが、不意に顔をそむけた。そして部屋の中に衝立を置くと、その向こうに閉じこもって頭から布団を被ったまま、出てこなくなったのである。 ***  家の外に出てみると、七輪が出しっぱなしになっていた上、鴎花が昨日雪加のために作った握り飯は踏み潰されていた。  昨夜の鴎花のはしたない行いに傷つけられた雪加の心は、予想以上に荒れているようだ。  それについては申し訳なく感じるが、しかしいつまでも雪加にだけ構っているわけにもいかない。これからイスカの食事を作りに行かねばならないのだ。  日課である洗濯を手早く片付けた鴎花は「それでは厨房へ行ってきますね」と衝立の影から声をかけた。  返事は無い。  それでも鴎花は面布を被り、痘痕面(あばたづら)を覆い隠すと橋を渡った。そしてその袂に設置された詰め所へ声をかける。 「厨房ならば行っても良いと、昨夜陛下から許可を頂きました。通してくださいませ」  するとピトとフーイという、いつもの二人の兵士が出てきただけでなく、詰め所の隅で寝袋にくるまって横になっていた短髪の男がむっくりと起き上がった。  イスカの異母弟のアビだ。  彼はどうやら寝不足気味のようで、堪えきれないあくびを何度も漏らしつつ、目を擦っていた。 「うん? 王妃一人なのか?」 「はい。私だけです。あの者は今日は気分がどうしても優れぬと言うので」  侍女が居残り、主だけが出かけるなんておかしな話だが、あれだけ怒っていた雪加は、厨房へ行ってまで侍女を演じることなんてできないはずだ。 「私?」  アビは鴎花の一人称の変化を聞き逃さなかった。 「どういうことだよ?」 「陛下からそのように言えと命じられたのです」  鴎花は昨夜、達するという感覚を初めて知ってしまった。  そして全身を走り抜ける強すぎる感覚に悲鳴を上げた際、誤って素が出てしまい「私」と口走ってしまったのだ。  それは高貴な女性にあるまじき一人称だが、イスカは「妾と言うより気取っていなくて良いな。これからもそう言え」と気に入ってしまった。  鴎花としても言い慣れている一人称の方が断然楽でよい。だからこの件に関しては、ありがたく従わせてもらうことにしたのだ。 「ふうん、そっか」  納得したようなしていないような顔で、アビはとりあえず頷いた。
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