三章 山羊の乳

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「まぁ、いいや。じゃあ行こうぜ。今日だけは俺がついて行ってやる」  どうやらイスカは鴎花に付き添わせる為、弟を残しておいてくれたらしい。  こうして鴎花はアビに連れられて厨房へと向かった。  厨房は後宮内にあり、後宮で暮らす人々の食事を鵠国(フーグォ)の頃から一括して作っていた。  今は後宮内の宮殿を宿舎とする鴉威(ヤーウィ)の者達の食事を主に作っている。  料理人達は年始の変の前から働いていた者達がほとんどだが、いずれも身分が低いので、伽藍(ルイフォ)宮の奥深くで暮らしていた鴎花や雪加を直接知る者はいないはずだ。  鴎花が厨房に顔を出すと、料理長が代表して出迎えた。  白い衣を纏った痩せっぽっちの中年女だ。男子禁制の後宮では料理人も女性か、もしくは去勢された男子が務めている。 「かようなむさ苦しい場所へわざわざのお運びとは、恐悦至極に存じます。五姫さまにはご機嫌麗しゅう」  丁寧に頭を下げたものの、彼女の挨拶は微妙におかしい。  鴎花はイスカの王妃になったのだ。それをいつまでも燕宗の第五皇女として扱うのはよろしくない。  しかし華人である彼女は、あくまで鵠国の民という意識でいるようだ。  華語(ファーユィ)に堪能なアビはそんな微妙な言い回しにも敏感に反応し、眉をビクンと跳ね上げた。  それに気付いた鴎花は、自ら率先して料理長をたしなめる。 「料理長、これから私のことは王妃と呼んでください。私は国王陛下の妻なのです」 「は……失礼いたしました」 「それで、ここへ来た理由なのですが、今後は私が陛下の食事の支度をするように仰せつかったもので」 「なんと……」  皇女様ともあろう方がおいたわしや、と言わんばかりに顔を歪めた彼女を、アビがじろりと睨んでいる。  鴎花は慌てて間に入った。 「全て私が望んでのことです。ですが私は厨房での働きに不慣れなので、誰か助けてくれる者をつけてください」 「承知いたしました」  頷いた料理長は、すぐに一人の女を連れてきてくれた。  彼女は厨房で下女として働く女で、名を(リン)小寿(シャオショウ)といった。  名前に小の字が入っているにも関わらず巨躯の持ち主で、背も高ければ腰回りなんて鴎花の倍ほどある。年齢は三十代半ばで、五児の母だそうだ。  彼女は最近働き始めたばかりなので、まだ決まった仕事を任されておらず、そのため鴎花付きにしてしまっても、厨房の業務に支障をきたさないらしい。  決して美人ではないが、よく笑う朗らかな性格の持ち主である彼女は、初めて会う高貴な女性が相手でも、遠慮なく話しかけてきた。 「どうして王妃様自ら料理なんてなさることになったんですか?」 「陛下のご命令故ですが、私も陛下のためにできる限りのことをしたいと思って」 「あぁ、それは良いことですね」  皇女が食事を作ることを哀れと受け止めた料理長とは違い、小寿は鴎花の想いに賛成してくれた。 「胃袋を掴んでおくと男は浮気しませんよ。まぁ、うちの場合は浮気して出ていってくれた方が助かるんですけどね」  小寿は喉の奥が見えるほどの大口を開けて笑った。  聞けば彼女には働かない夫がいて、家計を支えるためやむなく働きに出ているそうだ。豪快に見える女性ながら、これで苦労を重ねているらしい。  鴎花達三人は厨房の別棟へと向かった。元は皇帝専用の厨房だったが、イスカは皆と同じ食事でいいと言うから、最近は使っていないらしい。  ここなら下々の者らと一緒に働く必要が無いから、お互いに余計な気を使わずに済む。  こじんまりしたこちらの厨房の中には、さすがに鍋や釜も質の良いものが揃えられていた。  ろくに経験のない鴎花がこれらを使いこなす日はいつになるのやら。しかし千里の道も一歩から。イスカのため、精一杯頑張ろうと思う。
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