三章 山羊の乳

3/20
前へ
/150ページ
次へ
 小寿にはまず、この厨房の掃除と片付け、献立作り、それに食材の下ごしらえを頼んだ。鴎花が慣れるまでは、炊事経験が豊富な小寿に多くのことを任せてしまった方が上手くいくはず。鴎花はこれからその技を少しずつ教えてもらうつもりだ。  しかし今は、小寿だけでなくアビからも教えてもらいたいことがある。 「あの……私に鴉威の料理を教えて欲しいのですが」 「鴉威の?」  それはアビにとっては意外な申し出だったらしい。戸惑った顔をしていたが、鴎花がどうしてもと頼むと「なら、山羊か羊の乳が必要だな」と言った。 「乳?! あんなものを?!」  鴎花はぎょっとした声を上げてしまった。  華人(ファーレン)には獣の乳を食する習慣がまるで無かったのだ。  しかしアビは肩をすくめて説明する。 「鴉夷の地は寒さゆえに米や麦が育たない。生えてくるのはせいぜい草くらいだ。だから俺達は草を食べる家畜を育てて、余すことなく食う」  しかし山海の珍味を取り揃えた厨房にも、獣の乳というのはさすがに用意していなかった。  ならば直接取りに行こう、という話にまとまり、鴎花はアビと二人で厨房の裏手にある厩舎へ向かった。食材として納品された豚や山羊や羊、鶏は生きたまま一旦ここに集められているのだ。  厩舎の囲いの中に入ったアビは、たくさんの動物達の中から子供を連れた真っ白な毛並みの母山羊を探して連れてきた。遊牧民であるだけに家畜に詳しい彼の見立てによると、この厩舎へ連れてこられた直後に生まれたのだろう、とのこと。  そして母山羊の脇に膝をつき、腹部の下に手桶を置くと、彼は膨らんだ薄い朱鷺(とき)色の乳房の突起部分をつまんで握りしめた。  すると乳が勢いよく飛び出してくるのだ。  乳搾りを知らなかった鴎花には、奇術のようにしか見えない。 「試しに飲んでみろよ」  手桶ごとアビに渡された乳白色の液体は僅かな量だったが、口をつけるとぷんと漂ってくる生暖かさと臭みがひどかった。これは絶対無理、と鴎花は少し舐めただけで顔を背ける。  以前イスカに勧められた酒とは、全く違う次元で飲めそうにない。 「やっぱりそうか。俺の母も鼻をつまみながら飲んでいたよ」  降参した鴎花が飲めなかった分を、勿体無い、と言いながら飲み干してしまったアビは、引き続き器用な手つきで乳を搾りつつ、鴎花に訊ねた。 「それでさ、どうして鴉威の飯を作りたいんだよ?」 「故郷の味の方が陛下に喜んでいただけると思うからです」  それにどうせ料理が分からないなら、鴉威の料理を一から学ぶのでも同じことだと思うのだ。 「鵠国の食事なら料理人達の方がよほど上手に作るのに、それでもわざわざ私に、と言ってくださったのなら、ぜひ陛下の好みに合わせたものを作りたくて」 「ふうん」  気のない返事をしつつ、アビは乳を絞っていく。その間、仔山羊は落ち着かない様子で母山羊の側を行ったり来たり。まだ小さいけれど、足取りはしっかりしていて、柔らかな純白の産毛が可愛くてたまらない。  そんな仔山羊に目を向けつつ、鴎花も彼に話しかけてみることにした。  本当は化粧筆の一件以来、イスカに危害を加える可能性がある危険人物として、彼から睨まれている自覚がある。  しかしアビならイスカのことをよく知っているはずなのだ。この機にどうしても話を聞いておきたい。 「あの……陛下は痘痕(あばた)の娘をどうして受け入れてくださったのですか?」 「うん?」 「いえ、その……陛下がお優しいのは分かるんです。でも人の目から庇ってくれたり、嫌悪感を見せなかったり、私が思う以上に配慮してくださるものですから……」  鴎花は喋りながら俯いた。  醜い痘痕で全身を覆われた鴎花を可愛がってくれたのは、これまで母の秋沙(チィシャ)だけだった。  でも腹を痛めて産んだ母が鴎花を愛してくれるのはまだ分かるが、会ったばかりのイスカがここまで気を遣ってくれるのは理由が分からない。 「……七年前、八哥は疱瘡(ほうそう)で実の母と兄を亡くしている」  アビは山羊の乳を搾りながら、昔の話を教えてくれた。 「疱瘡は一度患えばそれ以降かかることもないし、場合によっては軽めで治ることもある。実際、八哥も俺も罹患したけどすぐに治った。でも七哥(チーグェ)達は死んでしまって。そのことを自分がうつしてしまったせいだと、八哥は今も気に病んでいる」 「まぁ……」
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加