三章 山羊の乳

4/20
前へ
/150ページ
次へ
「それに死んだ二人は葬儀すら出してもらえなかったんだ。疱瘡が伝染るのを怖がったせいでもあるけど、痘痕が膿んで顔が膨れ上がっていたから気持ち悪いという声もあった。だから八哥はたった一人で母と兄の遺骸を葬ったんだ。俺もその時は同じく疱瘡を患って寝込んでいたから、八哥のことは何も手伝ってあげられなくて……」  アビはいつしか乳を絞る手を止めていた。その漆黒の瞳は虚空を見つめている。  七年前といえば、アビはまだ十歳にもなっていなかったはずだ。それでもこんなに暗い目をするなんて、よほど兄の力になれなかったことを悔やんでいるのだろう。  彼は大きな吐息を一つ漏らすと、気を取り直したように顔を上げた。 「なぁ、今度は俺に教えてくれよ。お前の侍女のことだ。名前はなんていう?」 「鴎花です」 「歳は?」 「ええっと……十八です。私の一つ上で」 「ふうん。意外に年を喰っているんだな。俺より下かと思ってた。それで、自分のことも妾とか言ってるし、お前よりよほど偉そうに喋るけど、後宮の侍女ってのは皆あんなものか?」 「そ、そうですね。鴎花は美しいので皇后陛下……私の母上様にも可愛がられて、その側にも置いてもらっていたので、どうしてもその口調が移ってしまって」  大いに動揺しつつ、鴎花は苦しい言い訳を並べた。  どうしてアビが雪加を気にするのかが怖い。  まさか二人が入れ替わっていると露見したのだろうか?  鴎花が偉そうにしておかなかったせいかもしれない。しかし、一人称を私に戻してしまったせいか、先程からどうしても尊大な喋り方というものをし辛いのだ。  焦っているところへ「おい」と野太い声を背後から投げかけられた。おかげで鴎花は反射的にひぃっと変な声を発してしまう。 「なんだ。そんなに驚かなくてもいいだろう」  憮然とした表情を浮かべてそこに立っていたのは、黒衣を身に纏ったイスカである。  アビは鴎花に対するのと全く違う、弾んだ声を上げた。 「おぅ、八哥。ケラとの話は終わったのか?」  ケラというのはイスカの父の代からずっと仕えている、寡黙な初老の忠臣だ。イスカは彼に全幅の信頼を置いており、鴉威が兵を動かす時、大切な政策を決める際には、彼と二人きりで相談して決めるのが常なのだ。 「あぁ。意外と早くにまとまった。例の件、決行は五日後、夜襲でいく。斥候からの知らせによるとあちらは大分人数が集まっているようだから、ここの兵はごっそり連れて行かなきゃいけないが、夜通し駆ければ朝には帰ってこられるはずだ」 「俺達の得意な速攻だな」 「ああ。それから、昨日の執務室への落書きの一件も決めてきた。お前が調べ上げてくれた犯人だがな、今回は不問にする」 「えぇ?!」 「手間をかけたのに悪かったな。だがよく考えたら、鵠国に仕えていた連中が、手の平を返して俺に忠誠を誓うのもおかしな話だろ。今回はまだ世情が落ち着いていないことも考慮して、穏便に済ませる。こちらの度量の広さを見せておくのも、悪くはないだろう」  兄弟の間で飛び交っているのは鴉威の言葉。  だから鴎花には、アビが兄との話の中で、漆黒の瞳に不満げな感情を漂わせたことしか理解できなかった。一体何の話をしているのやら。  待っている間、鴎花は仔山羊に手を伸ばし、白くて柔らかい毛並みを撫でてやった。  とても愛らしい子だ。鳴き声もまだか弱く、鴎花が抱き上げれば小刻みに震えた。  だがこの子だって食材なのだから、あと数日もすれば肉団子にでもされてしまうに違いない。 「それで……雪加はアビと何を喋っていたんだ?」  弟との会話を終えて視線を鴎花に移したイスカは、ここからは華語で話してくれた。 「あぁ。王妃が鴉威の飯を作りたいんだと。それで山羊の乳を絞っていたんだ」  アビが絞ったばかりの乳が入った手桶を兄に見せると、彼は久しぶりの故郷の味を我慢できなかったのか、そのまま口をつけて飲んでしまった。 「あぁ。やっぱり搾りたては美味いな」  感慨深げな吐息を漏らす兄に、アビは「だよなぁ、これが不味いなんて言う華人が、俺にはさっぱり分からない」と笑顔で頷いた。 「俺もやろう。うっかり全部飲んでしまったが、料理に使う分が必要なんだろ?」  イスカはアビに代わってヤギの傍らに膝をつくと、乳搾りを始めた。  それがまた弟に劣らぬ慣れた手つきなのだ。  彼の指が饂飩(うどん)の如き太い流れを生み出すと、鴎花は感嘆の声を上げてしまった。 「陛下もできるのですね」 「これくらい、鴉威では子供でもできる。お前もやってみるか?」 「は、はい……!」  こうして鴎花はイスカに見守られながら、生まれて初めての乳搾り体験をさせてもらうことになった。
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加