三章 山羊の乳

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 山羊の乳首はフニャフニャで温かい。  恐る恐る触ったら、イスカはすぐさま「それではダメだ」と言って鴎花の手に、自分の大きな手を重ねてきた。  そして鴎花が予想していたよりずっと強い力で握りしめてくれる。 「もっと強くていいぞ。痛ければコイツも嫌がるから分かる。遠慮しなくていい」 「……あ! 出ました!」  鴎花は歓声を上げた。  搾り出せたのは毛筋ほどの頼りない量だったが、それだけでも鴎花は大満足だ。   「まぁ、もう少し続ければ、ちゃんとできるようになるだろ」 「ありがとうございます。これからも挑戦してみます」 「練習するなら、いっそこの母子ごとお前にくれてやろうか」 「よろしいのですか?!」 「あのなぁ、俺を誰だと思っているんだ。この国の王だぞ。山羊の母子くらい好きにできる」 「あぁ、ありがとうございます。実は先ほどから、この子が可愛くてたまらなかったんです」  仔山羊を抱き締めてはしゃぐ鴎花とそれを見守るイスカは楽しげだが、一方で蚊帳の外に追いやられてしまったアビは、なんとも言えないつまらなそうな顔をしていた。  敏い彼には、兄がどうしてアビの絞った乳を飲み干してしまったのか読めていたのだ。  イスカは故郷の味に惹かれてうっかり飲んだわけではない。  飲み干してしまえば、王妃と二人で改めて乳搾りをすることができるからだ。恐らく、アビが彼女と二人で喋りながら乳搾りをしているのを見て、羨んだのだろう。  もちろん昨日だって日の高いうちからよろしくやっていたわけだし、毎日浮き島へ通っているし、食事まで作らせようとしているのだから、兄がこの痘痕女に心を惹かれているのは分かっていたが、まさかここまでとは。  いつの間にかアビは二人の側を離れていたが、話し込んでいる方は気が付かない。 「鴉威の料理を作るなら、あとは羊や山羊の肉がいるが、肉は冬場だけで、この時期には食べないな」 「そうなのですか?」 「乳を出す山羊や、毛を刈る前の羊をわざわざ潰す訳にはいかないだろ」  だから家畜達が繁殖期を迎える夏場は、動物の乳だけを口にして暮らすそうだ。乳はそのままでも飲めるが、発酵させるのが一般的だとイスカは言い、さらには鴉威の暮らしぶりも鴎花に話して聞かせてくれた。 「羊の毛は刈ったまま押し固めて家の壁なんかに使っているが、毛を()って糸を作れば織物を作ることもできる。これが鵠国への租税になっていたから、女達は暇さえあれば(はた)を織っていた」  鵠国では畑で育てた綿花や、蚕の吐き出す絹糸を使って布を織るが、遊牧民はやはり家畜を利用するらしい。 「陛下の着物も毛織物ですね」  鴎花はイスカの着衣に目を向けた。革の腰紐で締めた前開きの上衣は、薄くても温かそうだ。 「そういえば、鴉威の衣は黒い色ばかりですね」 「それは鴉威の地の泥に晒すとこの色になるからだ。泥の成分で糸が丈夫になるから、必ず染める。それで俺達は華人から(カラス)と呼ばれるようになったらしい」 「深みのある良い色です」  鴎花はイスカの上着の裾に手を伸ばし、目を細める。 「あぁ、そういえばかつて伽藍(ルイフォ)宮の客間に敷かれていたのも、黒色を基調に赤と白の差し色が入って、これとよく似た複雑な文様が織りこまれた絨毯でした。あれも鴉威の民が作ったものですか?」 「あれは鵠国の女官だったアビの母が、友好の証として鴉威へ嫁いできた際に、こちらから贈ったものだな。俺の母を始め、一族の女達が一年がかりで織った力作だぞ」 「まぁ、お母様も……確かに素晴らしい出来でした。精密な模様の美しさもさることながら、丈夫で、長く使っても色褪せることがない、素敵な織物で。あぁ……それでは今まで気付いていなかっただけで、随分前から鴉威は私の身近に存在していたのですね」  鴎花が言うとイスカは、そうだな、と答えた。  返事自体は短かったものの、彼が誇らしげに鼻を鳴らしたように見えたのは、気のせいではなかったはず。  肌の色も目の色も髪型も風習も、全てが違う異民族の王様が急に身近に感じられ、嬉しくなった鴎花はにっこり微笑んだのだった。
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