三章 山羊の乳

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二.  イスカと鴎花(オウファ)が山羊を囲んでの会話に花を咲かせている頃、雪加(シュエジャ)は浮き島を出て後宮の中を一人で歩いていた。  鴎花が出て行ったあと、急に家の中がガランと静まり返ってしまい、心細くなってしまったのだ。  雪加はこれまで周囲から(かしず)かれて生きてきた。だから一人きりになるということがまるで無かったし、それに誰もいないとアビに襲われたときの恐怖も蘇る。  そこで不本意ながら、王妃の後を追うために外へ出たい、と橋の袂にいる兵士らに申し出てみたら、あっさり許可された上に、誰もついてこなかったのだ。  恐らく雪加のことを侍女だと思い込んでいるせいだろう。彼らが逃亡を警戒しているのは鴎花だけなのだ。だから後宮の屋敷同士を結んでいる石畳の小径を雪加が歩いていても、すれ違った鴉威(ヤーウィ)の兵士らに咎められることすらない。ただ、物珍しげに眺められるだけだ。  これは予想だにしなかった展開だった。  ここまで雪加が警戒されていないなら、後宮からも容易に脱出できるのではないだろうか。  そして後宮を出てしまえば、後はどうにでもなるはず。自分こそが翡翠姫であると伝えれば、心ある華人(ファーレン)なら誰でも助けてくれるからだ。  そして今頃きっと兵を集めて再起を図っているであろう父や母にも、どこかで再会できるに違いない。 (あぁ早くこの忌まわしい場所を離れたい。ここを出れば全ては元通り……妾は誰からも称えられる美しく高貴な姫に戻れる……)  しかし憑かれたように後宮を歩き回ったものの、四方を囲む塀が高すぎて簡単には乗り越えられそうになかった。  ならば足場となりそうなものが転がっていないか、と建屋の陰や塀との隙間を探して歩いたのだが、これもみつからない。  そしてそんなところへ声をかけてきたのは、雪加が今、この世で一番嫌っている男だったのだ。 「よぅ、鴎花」  彼の声が耳に届いた瞬間、せっかく高揚していた心が冷水を浴びせられたかのように萎えていくのを雪加は感じた。  それに鴎花と呼んでくるとはどういうことだ。この男にその名を教えた覚えは無いのに、一体どこで仕入れてきたのやら。  しかしどう呼ばれようと、雪加には応じる義理が無い。無言で立ち去ろうとしたところ、黒衣の青年は雪加の腕をぐいと掴んできた。 「なんだよ、無視すんなって。知らぬ仲でもないのにさ」  その揶揄(からか)いに満ちた軽い口調といい、馴れ馴れしい態度といい……おのれ、蛮族の分際で鵠国(フーグォ)の皇女に対しなんたる無礼であろうか。 「離さぬか、蛮族!」  憤った雪加は激しく抵抗したが、どれだけ力を込めたところで、アビの腕一本、振りほどくことはできなかった。 「学習しない女だな。力で俺に勝てるわけがないってのは、昨日さんざん教えてやったはずだぞ」  抵抗したはずが逆に手首をぐいと引き寄せられ、動きを封じられてしまう。  雪加は怒りと悔しさで、白磁の頬にかぁっと血を上らせた。   「やはりそなたは夷狄(ウィーディ)じゃな」 「あぁ?」 「力に任せて物事を押し通すのは、獣のやることじゃ」 「じゃあ夷狄は夷狄らしく、お前をここで犯してやるよ。俺も今ちょうどイライラしてたんだ」  酷い宣言をしたものの、アビはその直後に己の動きの全てを止めてしまう。 「……なんだよ」  アビが発した唸るような低い声は、雪加に対しての文句ではなく、揉み合っている二人の様子を連翹(れんぎょう)の咲く垣根の向こうから見つめていた華人の文官に対してのものだった。  雪加も彼を見た。小さな冠を頭に載せ、お仕着せの紺色の長衣を着ているところから察するに、下級官吏のようだ。  口の周りと顎に形ばかりの髭をたくわえた、ひょろっと背の高い中年男である。どうやら何処かへ届け物をしに行くところだったようで、手にはたくさんの書類を抱えていた。 「文句あんのか」  黒い瞳に殺意まで込めてアビが脅したものの、身分のわりに気骨のある男なのか、全く動じない。 「大いにありますな。鴉威の民であろうとも、華人を理由なく傷つけてはいけないと国王陛下から命令が出ているはずですよ。ましてやか弱い女人に手出しをするなんて、絶対に許されぬことです」  それは支配者である鴉威の民に(ひる)むことない、堂々たる物言いだった。
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