三章 山羊の乳

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 おかげでアビは気持ちを削がれてしまったらしい。舌打ちを一つ漏らすと、覚えてろよ、と捨て台詞を残してあっさり立ち去ってしまった。 「ご無事かな」  アビの黒一色な後ろ姿を官吏は険しい表情で見送っていたが、雪加に対しては優しい目を向けてくれた。  そして、ほぅと感嘆の声を漏らす。 「後宮の女官はあの夜に多くの者が殺され、残った者も全て召し放たれてここには誰も残っていないと思っていたが、まだこんな美しい小姐(おじょうさん)がいたなんて」  あぁ。この何気ない言葉が雪加の心をどれだけ沸き立たせたか分からない。  何しろここ最近の雪加は、美貌を褒められることが絶えて久しいのだ。  周囲に鴎花とイスカ達兄弟ぐらいしかいないせいだが、アビはともかくイスカに至っては雪加を見てもいない。  これほどの美女を前にしながら、痘痕娘なんかに入れ上げるとは……鴉威の民とは美しさを理解しない、本当に無礼な連中である。 「しかしその美しさは、小姐の仇となる。これ以上恐ろしい目に遭わないよう、ここでの務めは早々に辞して、実家に帰った方がいい」  彼は雪加の美しさは認めつつも、粗末な木綿の着物を纏った身なりから、女官の一人だと判断したようだ。  雪加は女性としての嗜みとして袖口で顔を半ばまで隠しつつも、自分より一尺(約30cm)ばかり背の高い男を見上げた。  恥辱でしかない現場を見られてしまったのは不覚であったが、彼のおかげで助かったのは事実である。 「……大儀であった。そなたの名を聞いておこう」  こんな時でも礼を言わないどころか、権高い調子で話しかけてしまうのは、雪加の性格というよりは、単に他の話し方を知らないからだ。  しかし幸いなことに彼はムッとするより前に、雪加が身分の高い者であるのだろうと推察してくれた。身分が低いという自覚が、彼の方にもあったせいかもしれない。 「私めは(テェン)計里(ジーリィ)と申します。羽林軍(ユーリンジュ)にて軍務にあたっております」  彼は両手を胸の前で組み、頭を垂れて名乗った。  軍務ということは事務方。つまり軍に所属する文官ということだ。 「羽林軍?! では、羽林軍は既に蛮族どもに下ったというのか?!」  愕然とした雪加は、次は自分が名乗るべきであることも忘れ、声を荒げてしまった。  都を守る羽林軍が全滅したというのなら、まだ理解はできる。しかしまさか蛮族の手下になっているとは、想像を超えたのだ。 「は……あの年始の変で敗れた後、木京を守る羽林兵は残らず鴉威に下りました」  計里の話によると、鴉威の兵は木京の北側、玄武門から侵入。思いもよらぬ夜間の攻撃に対し、守備にあたる羽林兵らは敵を認識することもできぬまま右往左往しているうちに倒され、夜が明けた時には瑞鳳宮を占拠されていたそうだ。  そして残った者たちは鴉威達の呼びかけに応じて投降した後、そのまま兵士として木京の警備に当たっているのだという。 「で、では、(ズイ)都督は? 羽林兵の指揮官だったあの男も蛮族どもの配下に……?」 「いえ、都督は年始の変以来、ずっと行方知れずです」 「そんな……」  雪加は絶句した。  鵠国最強の兵団である羽林兵を指揮していた(ズイ)広鸛(グゥンガン)は皇族の血を引く青年で、雪加とは婚約していた。  あぁそうだ。去年の新年の宴で雪加のことを「中原の宝玉、翡翠の姫よ」と声高らかに謳い上げたのは彼だった。  蛮族どもさえ襲ってこなければ、今頃雪加は彼と婚礼を挙げ、都督夫人として、華々しい新たな人生を歩んでいたであろうに……。
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