三章 山羊の乳

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「何も、ご存知なかったのですね」  計里は気の毒そうな目で雪加を見つめた。  あの年始の変から三ヶ月以上の月日が流れている。それなのに現状を全く知らない者がいることを不思議にも感じたようだ。  雪加は気が動転している自らを落ち着けようと、大きく息を吸い込んだ。  この男の言っていることは衝撃的であったが、初めて聞く情報は貴重でもあった。  鴎花はまるで役に立たぬ女で、イスカに深く関わっておきながら有益な情報の一つも仕入れてこないのだ。こうなったら雪加自ら、情報収集に努めるしかない。 「では……何故そなたは蛮族どもに従っておるのじゃ?」  もっと他に聞いておきたいことは無いか、と考えた雪加は、心に一番最初に浮かんだ疑問点を問うた。すると計里は苦々しい様子で顔を歪めたのだ。 「私めとて、蛮族などに従うは屈辱の極みです。なれど暮らしが……」 「暮らし! なんとまぁ。士大夫ともあろう者が情けなや」  雪加は呆れ果ててしまった。  鵠国は優秀な人材を集めるため科挙と呼ばれる試験を行い、これを突破した者を役人として働かせていた。  そんな彼らは士大夫と呼ばれ、誰より国への忠義の心を学んでいるはずなのだ。  それが自らの生活ごときのために寝返るとは……!  これは計里自身も恥じていたことのようで、彼は長身を縮こませ、俯いてしまった。 「おっしゃる通り、実に情けないことです。しかしそれでも、士大夫としての心を忘れたわけではありません。然るべき時が来れば、必ずや鵠国の臣として忠義を果たしましょう」 「おお。それは佳き心がけ。実はのぅ、妾は(チャオ)雪加(シュエジャ)。翡翠姫なのじゃ」  雪加は袖口で口元を覆い、小さな声でその素性を明かした。 「永らく蛮族どもに幽閉されておったが、今日ようやくこの後宮の中を出歩くことだけ、許されたばかりじゃ」 「なんと……」  計里はさすがに驚いた顔をしていたものの、すぐに膝をつき、拝礼した。  雪加の美しさやこれまでの振る舞いから考えても、これは真実であろうと察してくれたようだ。 「それは大変なご無礼をいたしました。卑賎の身が姫君に直問(じきもん)とは、まことに恐れ多い事でございます」 「構わぬ、許す。それより、計里。妾はすぐにでもこの後宮から出たいのじゃ。どうにかいたせ」  雪加が命じると、計里は目を白黒させた。 「そ、それは……拙者などにはとても……」 「何故じゃ? そこの塀を越えるだけであろう」  女一人を抱えて脱出させるくらい、簡単にできるだろうと雪加は安直に考えていたのだ。  ところが計里はその先に待ち構える困難まで、一瞬で見抜いていた。 「しかし例え無事にここを脱したとて、資金も、その後の姫様の滞在場所さえ用意できておりませぬ。あまりに無謀です」 「そんなもの、とりあえずそなたの家へ置いてくれるので構わぬぞ」 「私めの家は狭く、それに町中にあります。姫様のように高貴なお方がいらっしゃれば、たちまち近所の噂になり、鴉威の者達に勘付かれましょう」 「そうか……掃き溜めに鶴がいるようなものじゃからな」  計里の家を平然と掃き溜め扱いした雪加は、今すぐの脱出を諦めた。  しかし脱出自体を断念したわけではない。 「ならば……そうじゃな、五日後またここでこの時間に会おう。それまでになんらかの策を練っておくように」 「は……」 「そなたの忠義、期待しておるぞ」  高貴な姫君としての境遇が一転したあのおぞましい夜以来、雪加の前に初めてまともな希望の光が灯ったのだ。  だから雪加が彼に期待するのは当然のことだった。  大いに気が昂っていた雪加は計里の手を握ってやったし、彼の方も感動した様子でそれに応え「もったいないお言葉。鵠国の臣として、この命に替えましても姫様のために尽くします」と、深々と頭を下げたのだ。  その従順な姿は雪加を大いに満足させ、初めて出会うこの下級官吏への信頼を、ますます深めることに繋がったのだった。
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