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三.
木京の街に日暮れを知らせる銅鑼が鳴り響く頃、田計里も一日の仕事を終え、帰宅の途につく。
自宅は瑞鳳宮のすぐ近くにある、官舎という名の長屋だ。狭く粗末な家だが庭もついているし、幼い娘と二人で暮らすのに不足はない。
計里が門をくぐり、家の戸を開けると、その途端に部屋の中から小さな塊が突進してきた。
「ちちうえさま!」
「おぉ、初音。良い子にしていたか?」
「あい!」
計里が四歳になる愛娘を抱き上げるその向こうでは、二歳から十一歳までの五人の子供達と白髪の老人が、円卓に座って食事をとっているところだった。
食事を作ったのは計里が頼んで通ってもらっている老婆で、今は台所で皿を洗っている。
五人の子供達は計里の朋友で、つい先日まで隣家に住んでいた石蓮角の子らだ。
彼らは今は官舎を出て街中の方へ引っ越しているのだが、それでも毎日、田家へ夕飯を食べに来る。
代わりに計里が務めに出ている間、この子らが初音の面倒を見てくれるのだ。
計里の妻は去年、流行り病で亡くなっている。
そして蓮角の妻も最近働きに出るようになって夕食の支度をできないから、こうやってお互いに足りないところを助け合っているのである。
計里が娘を椅子に座らせ直していると、石家の長女が弟妹を代表して立ち上がった。そして律儀に食事の礼を述べようとするから、それは手を上げて制した。
「遠慮せず食べなさい。それよりこれを」
計里は帰宅途中に市場で買ってきた一抱えの麻袋を、少女に渡した。中には黄色い枇杷の実がたくさん入っている。
「夕餉の後にでも、皆で食べるといい」
「いつもありがとうございます」
「こちらも初音の面倒を見てもらっているんだ。遠慮はいらないよ」
甘い果物の登場で歓声をあげる子供らの様子に計里が微笑んでいると、その脇から老人がぬっと顔を突き出した。
髭が無く、代わりに豊かな白髪が頭部を覆っている。まるで婆さんのような容貌の爺さんである。歯が無いものだから、口元からはフガフガと余計な息が漏れていた。
「儂に土産は無いのか?」
甲高い声音で厚かましいことを言ってのけるが、彼もまた、この家の人間ではない。
蓮角達家族が住んでいる家の裏で、一人暮らしをしているご隠居だ。この子らに学問を教えてくれているのだが、その流れでいつも夕飯を食べに来ている。一人分の飯の支度をするのが億劫らしい。
「老師にはこれを用意しましたよ」
枇杷と一緒に市場で買ってきた酒の瓶を見せると、老人は途端に目尻を下げた。
「それは重畳。珍しく気が利くではないか」
「蓮角も呼んできましょう。たまにはあれも外の空気を吸わねば」
「放っておけ。あんな甘ったれの孺子、わざわざ関わってやらずともよい」
老人は厳しいことを言うが、蓮角の真っ直ぐな性格を考えれば、仕方のないことだと計里は思っている。
「しかし、今日は彼にも折り入っての話があるのです」
「ならばまずは儂が聞いてやろう。いかがした?」
老人が早速酒瓶を傾けて手酌で飲み始めてしまったので、計里も渋々席についた。今から蓮角を呼びに彼の家まで行っていたら、その間にこの老人は酒瓶を空っぽにしてしまいそうだ。
こうして夕飯を終えた子ども達が庭に出て皆で枇杷を食べている間に、計里は翡翠姫の件について、老人に語って聞かせることになった。
この老人は今でこそ街中で子ども相手の私塾なんぞを開いているが、元は瑞鳳宮で辣腕を振るっていた経歴の持ち主。
信に足る人物であり、だからこそ良い助言を得られるだろうと計理は期待したのだ。
しかし興奮気味に語る計里と違い、彼はいたって冷静だった。
「それは真の翡翠姫なのか?」
老人がもっとも疑ったのはその点である。
高貴な姫ならば、男達がいる場所を一人きりで歩くはずがない、と言うのだ。
「このところの後宮は、老師がご存知の頃とは様変わりしております。宮殿は蛮族の男どもが宿舎にしており、庭も雑草が生えて荒れ放題。恐らく姫も侍女をつけてもらえぬほど不自由しておられるのでしょう。それに翡翠姫の名に恥じぬ美しいお方でしたし」
計里は必死で反論したが、ならば余計に怪しい、と一蹴されてしまった。
「せっかく捕えた美しい姫を、鴉威の者達が野放しにする訳が無かろうて。お前さんは見目の良い華人の女官にからかわれただけじゃ」
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