三章 山羊の乳

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 あまりにきっぱりと否定されてしまい、計里はぐうの音も出ない。 「大体、姫を後宮から救い出したところでいかがする。お前さんが先頭に立って反乱でも起こすのか?」 「だから老師や蓮角には、その辺りを相談したかったのです。聞いたところによると、東鷲(ドンジゥ)郡の長官が鴉威に対抗するべく面従腹背、密かに兵を集めているそうなので、姫をそこまで送り届けられたら良いかと思っていたのですが」  幼い頃から科挙を突破するための勉強しかしてきていない計里は馬にも乗れないが、羽林軍(ユーリンジュ)の将官だった蓮角は腕っぷしも強く頼りになる。東鷲郡の郡庁は木京からも近いのだし、彼と二人でならきっと姫を安全なところまで連れて行くことができるだろう。  蓮角とは同じ羽林軍で働くうちに親しくなった。  年齢も近いし、隣家に住んでいるし、同じ羽林軍で働いているし。それに日々武芸に励む彼の真摯な態度には、計里も敬意を抱いていた。  しかし今の彼は異民族から都を守り抜けなかったことを悔やんで職を辞し、以来自宅に引きこもってしまっているのだ。  計里は蓮角のことが心配でならなかった。  皇女のために働けるのなら、彼もきっと輝きを取り戻すはず。計里は親友と共に翡翠姫の救出を成し遂げたかったのだが……。 「お前さんまでが噂に聞いているくらいの話を、鴉威の者達が見逃すわけがなかろうて。そんな目の粗い(ザル)同然の反乱、上手くいく訳が無い」  老人の指摘はいちいちごもっともである。  東鳶郡の(エァ)長官は文官であるが故に、兵を集めることにも慣れていないのだろうか。鵠国(フーグォ)は伝統的に文を重んじ武を軽んじる(まつりごと)を行ってきたので、こういう時に上手く立ち回れる有能な武人が育っていない。 「ではこのまま手をこまねいて、蛮族をのさばらておけと仰るのですか?」  翡翠姫の救出作戦には無理があると理解したものの、計里は拳を震わせて強い声を上げた。  計里は唯々諾々と蛮族に従っている自分を許せないのだ。鵠国の臣として、士大夫として、何かをしなくてはならない焦燥感に駆られている。  しかしそんな熱い想いも、老人には飄々と受け流されてしまった。 「そんなもの、のさばらせておいたら良い。あやつらは鵠国より、よほどまともな(まつりごと)をやっておる」  なんとまぁ。かつては鵠国の臣として禄を()んだ身であるのに、とんでもないことを言うものだ。  計里は憮然としたが、白髪の老人は酒を美味そうに呑みながら、その根拠を語った。 「考えてもみよ。燕宗陛下は土塊(つちくれ)をこねて壺を作ることに熱中され、政務の一切を祥宰相に任せきりだった。しかも国の一大事には民を見捨てて逃亡する始末。話にならぬ」 「……」 「そしてその祥宰相は金を使い過ぎ足りなくなった歳費(国の予算)をまかなうため、民に複雑且つ重い税を課した。此れ、為政者として許されざる行為じゃ。それに比べて、鴉威の王は自ら意欲的に国政に乗り出し、租税も免ずると言う。民草(たみくさ)にとってどちらがありがたい存在か、一目瞭然であろう」 「蛮人達が今年の租税を免除するのは、単に徴収の仕方が分からないからですよ。奴らは、その王ですら文字を読めず、文官にいちいち声に出して読み上げさせている始末なのですから」  計里が瑞鳳宮の中で聞いた話を披露して反論しても、老人はなんのなんのと首を横に振った。 「王自らが万能の英傑である必要は無いぞ。王たる者には英傑を使いこなすだけの度量があれば十分じゃ。ほれ、鵠国の太宗(タイゾン)も、元は読み書きのできぬ農家の小倅であったというではないか。しかし太宗は霍子(フォズ)という賢人を得、更に天帝の娘である(ツェイ)氏の姫を妃に迎えることで、その後三百年近くにわたり中原を治める大国を作り上げたのじゃ」 「それはそうですが……」  計里が不服げに頷いたその脇で、老人はちょうど皿を下げようとして側を通った婆さんの尻を撫でていた。 「何してくれるんだい、この色呆けジジイ!」  この婆さん、背中が曲がっているものの、口は達者で、動きも素早い。  瞬時に反撃して老人の手の甲を(つね)るから、抓られた方はアイタタタと派手に痛がって見せた。  婆さんは憤慨しながら台所へ去っていく。  その丸っこい背中を見送りながら、老人は反省の色が無い、楽しげな笑い声を上げた。 「ふぉっふぉっふぉっ。いつ触っても、おなごの尻は良いものじゃのぉ」 「……老師も飽きぬお方ですな」 「儂は年を経るごとにおなごが好きになっていくんじゃ。人生において、今が一番好きかもしれん」  老人は悪びれることなく言い切る。  彼の顎には髭が無く、代わりに毛量豊かな白髪が頭部を覆っていた。このところめっきり髪の毛が薄くなってしまい、結うのも難しくなってきた計里としては、羨ましさすら覚える髪の量である。
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