三章 山羊の乳

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 翡翠姫から命じられた瞬間、計里は魂が震えるのを確かに感じた。囚われの姫君のために働く自分を想像し、興奮したのだ。  それでも計里は自らの心に手綱をかけた。ここで闇雲に突っ走るわけにはいかない。 「姫様、その前に教えて下さい。姫様が厨房へ出入りし、王の食事を作っているという噂を聞いたのですが、それは真でございますか?」 「妾が?」  翡翠姫は目を見張った。そしてすぐに眉をひそめる。 「それは妾の侍女じゃ。厨房の者達は恐らく勘違いしておる。妾が僭王のために料理など、するわけがなかろう」 「さようでございましたか」  計里は納得した。  確かに身分の低い厨房の者達は、計里と同じでお姫様の顔なんて知らないから、侍女と見間違えたのかもしれない。  そして侍女が厨房へ行っているからこそ、翡翠姫はその間、一人で歩き回っているのかもしれない。  すうっと腑に落ちる感覚があった。  やはり彼女こそが翡翠姫なのだ。 「しかしさすがに今夜は無理です、姫様。鴉威の者も最低限の人数は残していくはず。なのに私めが助力を頼めるのはせいぜい一人か二人ですし、どうやって姫様を連れ出すのか、どこへお連れするのかもまだ考えきれていないのです」 「そう言うと思って、妾も策を練ってきた。そなたが街に火を放つと良い」 「え?」 「木京の街で火事が起きれば、鴉威の者達は混乱する。それに乗じれば、少ない人数でも妾を連れ出せよう。その先のことはそれから考える。とにかくこの後宮を離れられれば、それで良いのじゃ」  ここで彼女は翡翠色をした絹の布きれを、計里の手に押し付けてきた。 「これは妾の書いた命令書。これさえあれば必要な人手は集められるはず」 「姫様……」 「今はそなただけが頼りなのじゃ。頼んだぞ、計里。今宵、伽藍(ティエラ)宮の池に浮かぶ浮き島で、そなたを待っておるからの」  彼女は切ない目をして、布切れごと計里の手を強く握った。  そしてまともに返事もできなかった計里をその場に残し、足早に走り去ってしまったのである。 ***  翡翠姫と別れた後の計里は、どうしていいのか分からなくなってしまっていた。  恐らく彼女が翡翠姫であることは間違いない。  しかし街に火を放ってまで自分を助けろとは、よく言ったものである。彼女一人を救うために、どれだけの人が苦しむか……所詮お姫様にとって、一般庶民など虫けら同然なのだろうか。  それでも受け取った翡翠色の絹布には、今こそ鵠国の臣下としての忠誠を示す時。これを持つ者の言葉を妾の言葉と思い、その差配に全て従え、と紅を使って書いてあった。  (きみ)(きみ)たらずとも、(しん)(しん)たらざるべからず。  霍書(フォシュ)にもそんな一文があるではないか。  鵠国の臣であるなら、どんなに無鉄砲で、考えの足らない姫であろうと、真心を持って尽くすべきなのではないか?  しかし、いずれにしても今夜後宮から彼女を連れ出すのは不可能だ。あまりに準備が足りない。  だが計里が何もしなければ、彼女は失望し、怒るだろう。  下手すれば嫌がらせをしてくるかもしれない。例えば、後宮で計里に手籠めにされた、と鴉威の王に訴えるとか。  この絹布を見せれば、反論はできるだろうが、相手が蛮族である以上、どこまでまともに話を聞いてくれるか分からない。この布によってむしろ反逆罪に問われそうだし……。  やはり老師の言うとおりに、関わり合いにならないのが一番良い手だったのかもしれない。  しかし士大夫としては、亡国の姫君の懇願を無視することなど、できようはずも無かったのだ……。  堂々巡りの思考に頭を抱えながら石畳の小径を歩いていたら、鴉威の兵士の一団がこちらへ向かってくるのをみつけた。  翡翠姫が言っていた通り、彼らは出陣前なのかもしれない。武具をいくつも抱えていたし、妙にそわそわして見えた。そして彼らは馬を何頭も連れていたからこのままではすれ違うこともできそうにない。  関わり合うのを面倒に思った計里が垣根をくぐったところ、何処かも分からない庭へ出た。  軍務に携わっているため、伽藍宮に駐屯している鴉威の兵らと連絡を取ることもあり、後宮を歩き回る機会は増えたものの、元々が男子禁制だった場所ゆえ、計里はまだまだ歩き慣れていない。  そこで目線を上げてみた。表宮の南端にそびえる白い高楼が建つ方角を目指して進んでみることにしたのだ。  鴉威の者達が無駄だと決めつけ、庭師を解雇してしてしまったせいで、今や後宮は雑草だらけだ。背の高い草をかき分けて苦労しながら前へ進んでいると、一人の若い娘が山羊を連れて歩いているところに出くわした。  草を食む白い山羊を見守る彼女は、計里の存在に気付いていない様子だった。翡翠姫と同じく女官のような格好をしていたが、その顔はひどい痘痕で覆われている。
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