三章 山羊の乳

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 うら若い女性の身で、この容貌は辛かろう。  なのに彼女は赤い紐で首を繋いだ山羊へ慈愛に満ちた穏やかな眼差しを向けていて、その点に計里は違和感を覚えたのだ。  蛮族に占領され、荒れてしまった後宮の中で無邪気に山羊と戯れるなんて、あまりに不自然な行為である。  もしかしたら、彼女はこの容貌故に年始の変でも鴉威の兵士から暴行を受けることが無かったのかもしれない。だから蛮族達が歩き回っている中でも、我関せずとのんびり過ごすことができているのかも……。  そう思ったら、唐突に腹が立った。  同じ鵠国の臣でありながら、自分だけ絶対安全な立場で高みの見物とはけしからん。  いや、こんな感情は八つ当たりでしかないと分かっている。  しかしあの翡翠姫は美しすぎるゆえに、力づくで鴉威の王の妃にされ、歩いているだけでも乱暴な男に絡まれてしまうのだ。  それを考えたら、一人だけ狡いではないか……!  計里だって決して喧嘩っ早い性分ではないのだが、ここへ来るまでに抱えていた鬱屈した想いが、この時ばかりは妙な方向に働いた。おかげで、一言物申さずにはいられない義憤に駆られてしまったのだ。  そんな計里が彼女に向かって足を踏み出した、その時だった。  計里の足元の草むらから、突然白い鞠のようなものが転がり出てきた。  山羊の仔である。  どうやら痘痕の娘は仔山羊には紐を着けていなかったようだ。草むらの中で楽しく遊んでいた仔山羊は計里が近付いてきたから、びっくりして母親の元へ走り去ったのだ。 「!!」  勢いよく戻ってきた仔山羊のおかげで、彼女も計里の存在に気が付き、それと同時に慌てて顔を袖で覆った。 「な、なにか……?」  警戒する飼い主に影響されたのか、母山羊もメエメエうるさく鳴き始める。  この声に負けじと声を張り上げてしまったせいで、計里は自分が思っていた以上の強い口調で彼女に迫ってしまったのだ。 「なんであなたは山羊なんて連れているんです?」 「え?」 「そのようなものを連れて歩いても、鵠国のためにならぬであろうと申しているんです。あなたにだって、もっと他に為すべきことがあるでしょう」  突然の説教に、痘痕の娘は呆気にとられていた。  それはそうだろう。言った本人ですら訳の分からないことを口にした自覚はあったのだ。  だから「ですから……」と言い直そうとしたのだが、それより前に彼女は強張った目を計里に向けてきた。 「……私のやりようを気に入らない者がいるのは承知しております。恥ずべき行為と皆から思われているのでしょう。ですが私は、今できることから始めていきたいのです」 「できること……?」  今度は計里が唖然とする番だった。  山羊の親子を飼うだけで、そんなにも深刻な覚悟を?  しかし物腰が柔らかい中でも、真剣な彼女の話し方には人を引きつけるものがあり、計里は思わずその言い分に聞き入ってしまった。 「鴉威の者達は草原で山羊や羊を飼って暮らしています。しかし私達はその暮らし方を知らず、一方的に野蛮だ、蛮族だと決めつけてきました。無知から来る偏見です。ならば鴉威をもっと深く知れば、華人の感じ方も変わると思うのです」  母山羊にじゃれつく仔山羊の頭を撫でてやりつつ、痘痕の娘は一言ずつ噛み締めるように想いを語った。 「私はこの子達を飼って、その乳を絞ることで互いの理解を深めたい。二つの民族がより良い関係を作っていくための道を、私なりに探っていきたいのです」 「あなたは……」  計里は次に続けるべき言葉がすぐに出てこなかった。  顔を覆う痘痕の印象が強すぎたが、どうしてどうして、思慮深い娘ではないか。  計里はこの不思議な女官ともっと話をしたいと思ったのだが、残念ながらここで打ち切りになってしまった。  褐色の肌の兵士が庭の向こうから駆けてきて、何をしているのだ、と計里を咎めてきたのだ。  彼の操る片言の華語は聞き取りがたかったのだが、その怒った表情を見れば言いたいことは大体分かる。 「違うのです、フーイ。この者はただ、私にどうしても言わずにいられないことがあっただけで……」  痘痕の娘が間に入って宥めてくれる。その隙に計里は一礼を施し、身を翻した。  鴉威の男の怒り具合から察するに、長居をすれば妙な罪に問われる予感があったのだ。言葉の通じない蛮族との揉め事は、出来る限り避けたい。  こうして計里は彼女が何者であったのかすら分からないまま、この場を去ることになってしまったのである。
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