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四.
鴎花はもちろん、計里のことなんてまるで知らなかったのだ。
ただ厨房へ出入りするようになってから、華人達に冷たい目を向けられるようになっていたので、それゆえに話しかけられたのだと思っていた。
彼らは自分達の仕える姫君が、蛮族のために下女のごとく料理を作っている姿に、いたく失望していた。
鴎花が強要されたのではなく、嬉々として厨房へ通っていると分かったからだ。
初めて会った時には慇懃に接してくれた料理長ですら、今や最低限の挨拶しかしてくれない。
小寿だけは「そんなの気にしなきゃいいんです。誇りだけじゃ生きていけないんですからね。妃殿下は現実と向き合って立派ですよ。うちの亭主にも爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですわ」と励ましてくれるのだが、やはり翡翠姫ともあろう者が、という意見の方が根強い。
それでも鴎花はイスカに食事を作り、山羊を飼うことを続けたかった。
これまでは雪加に命じられる通り、受け身で翡翠姫を演じてきたが、焼いた握り飯を作るという何気ない行動がイスカに受け入れられたことで、自分にも華人や鴉威の民のためにできることがあるような気がしてきたからだ。
イスカにとっての年始の変は、一族にとっての積年の恨みを晴らしただけの行為であったとしても、国を滅ぼされ、身内を殺された華人達が鴉威の民を受け入れるのは至難の業である。
それでもイスカの王妃になった自分なら、両者の架け橋になることができるはず……。
イスカが鴉威の暮らしぶりを語って聞かせてくれた時に、鴎花は彼らが近しい存在であることを知った。
だから華人達も鴉威を知ることができれば、理解してくれる者が現れるのではないか。翡翠姫が率先して鴉威の理解に努めれば、お互いにとって良い結果が訪れるのではないか……。
もっとも現実はそう上手くいかず、厨房にいる華人達からは冷ややかな対応をされるだけだったが、その中であの紺色の官服を纏った下級官吏だけは直接、鴎花に気持ちをぶつけてくれた。
それは彼にとって、とても勇気が必要なことだったはずで、それだから鴎花も真摯に対応し、自分の考えを伝えたのだ。
(でも、あれで分かってもらえたかしら?)
フーイに連れられて浮き島へ帰る途中、鴎花は首をひねっていた。
ろくに向こうの言い分を聞けないうちに中断させられてしまったので、どこまで真意が伝わったのかはよく分からない。
邪魔をしたフーイは普段は浮島の橋の袂に詰めていて、鴎花が厨房へ行く際についてきてくれる。
フーイは片言の華語しか喋れないが鴎花にも親切にしてくれる男で、先程もうっかり風で飛ばされた面布が高い木の枝に引っかかってしまったから、代わりに取りに行ってくれていた。
でもイスカの命令に忠実な彼は、その間に鴎花が見知らぬ華人と接したことまでは許してくれず「あれ、ダメダメ」と怖い顔で注意されてしまった。
王妃と言えど、囚われの身である鴎花が許されるのは山羊と戯れることくらいだ。
ちなみにわざわざこの親子を厨房まで連れて行くのは、浮き島に残しておくと、獣臭い、鳴き声がうるさいと雪加が嫌がるからなのだが、その皇女様はと言えば、鴎花が夕方、浮き島へ戻ってくると、とんでもないことを言い出した。
「今宵は妾が翡翠姫になる」
「え?」
「連中は今夜帰って来られぬのじゃろう。それくらい構わぬではないか」
それから雪加は、鴎花が作った夕飯を食べ終えると、自分が着飾るための支度を手伝わせたのだ。
濡れた布巾で全身を清めたあとには香水をつけ、髪を洗って梳り、丹念に化粧も施した。
身につける着物も式典用に用意していた絹の長衣にする。本当なら翡翠色の絹の着物が一番高価で立派だったが、何故だかそれは駄目だと雪加が頑なに言い張るので、もう一枚の赤い着物の方を着ることになった。
一体どうしてこんなことをする必要があるのだろう?
確かに今朝はイスカが「今夜は戻らない」と言っていた。そして兵を多く動かすから、夜の間は不用心になる、お前はこの家の中でおとなしくしておけとも言われた。
だがフーイが居残っているように、鴉威の兵士全員が居なくなるわけではないのだ。雪加がわざわざ翡翠姫の格好をして、そのせいで入れ替わりが露見してしまったら大変なことになるのに……。
(まさか、よからぬことでも企んでいる?)
そんな不安がよぎったものの、今日の雪加はひどく強引で、反論など許さない構えだったので、鴎花はおとなしく言う事を聞くことにした。
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