三章 山羊の乳

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 そして落ち着かない気持ちのまま夜を明かしたのだが、翌朝になっても浮き島には何の異変も無かったのだ。  朝の清々しい光が差し込む中、二階の寝室から梯子を下りてきた鴎花は、絨毯の上に座っている雪加を見ることになる。  どうやら美しく着飾ったまま一睡もせずに夜を明かしたらしい。  この絨毯はイスカの母達が織ったもの。  これまでは伽藍(ティエラ)宮に敷かれていたが、あちらに置いておくと皆が汚すからここで使え、と三日前にイスカが運んできてくれた。  だからとても質の良い絨毯ではあるのだが、そこに座ったまま夜を明かすなんて……。 「あの、姫様……」  鴎花は遠慮がちに話しかけたが、彼女は口を真一文字に結び、扉の方をじっと見つめているだけだった。  閉じた貝の如き雪加の態度に、鴎花は困り果ててしまった。  そこで「では、私は山羊の世話をしに行ってまいりますね」と声だけかけて一旦、表に出ようとしたのだが、彼女は突然、金切り声で叫んだ。 「妾より山羊か!」 「も、申し訳ありませぬ」 「誰も彼も……本当に役に立たぬ者ばかりじゃ!!」  叫び声を上げた雪加の目には、うっすら涙さえ浮かんでいた。 「ひ、姫様?!」 「もうよい!!」  地団駄を踏み、癇癪を起こした雪加は銀の(かんざし)を付けた絹の面布をはぎ取って投げ捨てると、長衣の裾を引きずりながら、梯子を駆け上がってしまった。  鴎花はもちろん雪加の後を追いかけようとしたのだが、その時ちょうど扉が開いて、イスカが入ってきた。  年始の変の時のように黒い頭巾に革の鎧を身につけて武装している。今日は長剣を佩びているだけでなく、矢筒も背負っていた。 「お、お戻りなさいませ」  大慌てで膝をつき、頭を下げてイスカを出迎えたものの、鴎花の心臓はバクバクと激しい音を立てていた。  帰ってくるのは昼過ぎと聞いていたから、あまりに早すぎて心の準備ができていない。  それについ先ほどまで、ここには翡翠姫に戻っていた雪加がいたのだ。これで緊張するなという方が無理な話だ。 「よくぞご無事で。陛下の類まれなるご仁徳に心打たれし天帝(ティェンディ)による、ご加護の賜物でございましょうや」  頭を垂れて挨拶しながらも、鴎花の目線は先ほど雪加が投げ捨てた銀の簪と面布に向いていた。  あんなものが絨毯の上に落ちているのは、あまりに不自然である。  すぐにも拾いたくて我慢ならず「では、私は朝餉の支度をしてきますね」と言いながら、簪をさり気なく掴んだところでイスカが抱きしめてきた。 「なんだ。俺から逃げ出したいようだな?」 「め、滅相もございません」  イスカは鴎花に覆いかぶさるように、耳を甘噛みしてきた。 「今は飯よりお前を食いたいんだが」 「ご、ご冗談を。お疲れでございましょうに」  さすがにぎょっとして彼の腕から逃れようとしたが、イスカは離してくれない。 「(いくさ)の後は女を抱きたくなるんだ」  イスカの華語(ファーユィ)の語彙力では表現しきれなかったようだが、どうやら血がたぎってしまうということらしい。  イスカの蒼い瞳は、部屋の真ん中にある二階への梯子を捉えていた。そういえば雪加が登った後、下ろしたままにしていたか。
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