三章 山羊の乳

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「そうなのか?」  イスカはその辺りのことを分かっていなかったようで、アビに目を向けた。 「……調べさせる」  アビはすこぶる不機嫌そうな顔で頷く。  彼がこんな顔をするのは珍しい、と鴎花はふと思った。  そういえばアビがわざわざ華人を連れてくるのも初めてのことだった。  この計里という男に弱みでも握られているのだろうか。そうとしか思えない表情に見える。  そして実際のところ、計里は後宮で雪加を襲っていた件を大事(おおごと)にする、とアビを脅してここまで来ていたので、鴎花の推察はあながち間違っていなかったのだ。 「米や麦の値段が上がり続ければ、民の不満につながることは間違いありません。早急に玄武門を使って物流を改善するべきです」 「ダメだ。玄武門は軍のための門だから、確かに荷駄を一気に通すことはできるだろうが、あの大きさじゃ荷改めが追い付かない。危険すぎる」  アビが異を唱えた。  昨夜は出兵のために門を開いただけなのだ。  大きすぎる門だけに頻繁に開け締めするのは難しい、と彼は主張するが、それを計里は一蹴した。 「荷改めよりも木京の民の暮らしの方が優先です。反乱なんてものは暮らしぶりが落ち着いていたら起きぬもの。陛下は木京に武器や反乱分子が入り込んでくることを恐れているのでしょうが、そんなことはどうでもよろしい」 「そんなことだと?!」  アビは目くじらを立てるが、計里は意に介さない。 「私めはこの国を支えるため官吏になりました。士大夫としての今の私めにできることは、あの門を使って木京の物価高を押さえ、民の暮らしを守ることに他なりません。どうか許可をいただきたい」  イスカの後ろに控えた鴎花は、粥を椀によそい入れていた手を止めた。どこかで聞いた言い回しだと思ったら、昨日の自分の言葉と同じではないか。  そしてイスカもまた、蒼い瞳を煌めかせて、熱心に計里の話を聞いていたのだ。 「その物価高は、食料が満足にあれば下がるということだな? では必要だというだけの米と麦を預けたら、お前が値段を落ち着かせることはできるか?」 「断言はできません」  慎重な計里は安請け合いをしなかった。 「経済は生き物です。価格は収支の釣り合いなど諸々の要因で決まってくるので、市場に米を投入し過ぎれば、安くなりすぎてかえって混乱することもあります。ただ私めは羽林軍において物資の補給を担っているだけに、少しはやりようというものを理解しています。ですからお任せいただければ最善を尽くします」 「分かった。ここまで直訴してきたお前の度胸を買おう。まずは一ヶ月、玄武門をお前に預けるから、木京における米と麦の価格を安定させろ」  イスカは即決した。計里を見て、その話しぶりを聞き、信頼のおける男だと判断したのだ。 「運のよいことに、俺は昨夜、東鷲(ドンジゥ)郡で大量の食糧を手に入れたんだ」 「それは……」  イスカの言葉が何を意味するのか察したようで、計里は僅かに眉をひそめた。  鴎花も同じく目を伏せる。イスカが兵を動かした以上、華人との衝突があったのだろうとは察していた。しかしいかな理由があろうと同胞を殺められれば胸は痛むのだ。それだから鴎花はイスカがどんなことをしてきたのか、敢えて問わないようにしている。  計里も詳しい経緯は聞かなかった。今の彼に必要なのは、物価を安定させるだけの食料が手に入った、という情報だけである。 「これからあの食料はこちらに運んでくる手筈になっている。それをお前に全て預けよう」 「八哥、それは危険すぎる。こいつは華人だぞ」  アビが鴉威の言葉で止めに入った。  しかしイスカは計里にも分かるよう、敢えて華語で返事をする。 「この男は鴉威のために働くんじゃなくて、士大夫としての誇りにかけ、この国の民のために働くと言っているんだ。それなら任せて構わない」 「ありがとうございます、陛下」  イスカの口をついて出た言葉に、計里はごく自然な流れで頭を下げているようだった。  華人の彼が鴉威の王に頭を下げるには葛藤もあったと思うが、イスカの王としての力量に感服したということなら、鴎花はとても嬉しい。  彼がこうやって華人たちに信頼され、王として敬われることになっていけば、華人と鴉威、二つの民族はいがみ合うこともなくなるのではないだろうか。
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