三章 山羊の乳

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「話は終わりか? なら、お前らも飯を食っていくといい。足りるな?」  振り返ったイスカに問われ、鴎花は頷いた。元々二人分で用意していたが、一人分の量を減らせばなんとかなるだろう。  しかし計里は戸惑った表情を浮かべていた。  客人をもてなすために一緒に食事をとるのは、鴉威では当たり前のことだが、王たる者が下級官吏とこれほど近い距離で食事を一緒にとることは、鵠国(フーグォ)でならありえない。  しかも差し出された椀には、見たこともない白濁した粥が入っていたのだ。 「山羊の乳の粥だ。雪加は料理上手なんだ。華人でも食べやすいように作ってくれているから安心して食え」  一足先に頬張りながら、イスカは機嫌よく説明してくれるが、鴎花としてはなんとも居心地が悪い。   (えーっと……正確に申し上げますと、ほぼ小寿(シャオショウ)が作ったものです。私は温め直す時に搾りたての山羊の乳を加えただけで)  イスカに対してまた嘘が増えてしまったことを心の中で詫びつつ、鴎花は面布の下で優雅に微笑んでみせた。  しかしまぁ、山羊の乳を粥に加えるのは鴎花が思いついたことだった。  イスカから乳を使った鴉威の料理をいくつか教えてもらったものの、塩気と臭みがキツ過ぎて鴎花が食べられず、仕方がないから鵠国の料理に乳を混ぜることにしたのだ。  これをイスカが気に入り、彼に出す粥にはいつも山羊の乳を入れるようになった。 「なるほど……これは華人と鴉威の民に寄せる、妃殿下のお志を表した粥なのですね」  計里は感慨深げに椀の中の乳粥をじっと見つめた。  そして食べきると、鴎花に対し頭を垂れたのだ。 「妃殿下お手づからの食事をいただき、感慨無量です。今日の記念に、是非とも一筆賜りたく存じます」  これは鵠国ではわりとよくある話である。  身分の高い女性に対する敬意を表すために、書を所望するのだ。これは持って帰って掛け軸などにする。  しかし計里は官吏らしく墨入れと筆だけは持参していたが、紙が無い。  そこで鴎花は棚から絹の面布の予備を取り出し、その布に四行の詩を書いた。  白日依山尽  長河入海流  欲穷千里目  更上一层楼 「霍子(フォズ)ですね」  書き終えた布を計里に渡すと、さすが科挙を突破してきた官吏だけに、すぐに作者を言い当てた。  意味は、夕日に染まった山と、海へと流れる雄大な長河(チャンファ)の絶景を眺めるべく、高楼の一段上へ行こう、という意欲に満ちたもので、これから木京の街の物価高に挑むという計里を応援する意味で選んだ。本当は自作しても良かったのだが、偽物の身でさすがに恥ずかしくてやめたのだ。  ありがとうございます、と恭しい所作で布切れを押し頂いた計里は「霍子といえば……」と少し目元を和らげて話を始めた。 「昨夜は家にある霍子の書物を手当たりしだいに読み返しました。(きみ)(きみ)たらずとも、(しん)(しん)たらざるべからず……霍子が説いた士大夫としての道を考えておりまして」 「ほう」 「陛下は霍書に続編があることをご存知ですか?」 「続編?」 「霍子が晩年に記した書物です。あまり知られてはいないのですが、そこでは『君雖不君、臣不可以不臣』と、これが大前提であるとして述べた上で『(しか)れど、(きみ)(きみ)たらざれば、(すなわ)(しん)(しん)たらずとも言えり』と書き加えられているのです」  ここで改めて居ずまいを正した計里は、懐から翡翠色の布切れを取り出してイスカに手渡した。 「実はこのようなものを手に入れました」 「なんだ、これは?」  字が読めないイスカは眉をひそめ、計里は内容を読み上げた。 「翡翠姫の名を騙った命令書でございます」 「うん?」 「翡翠色の布に書けば、それらしく見えるであろうと思い、誰かが戯れに書いたのでしょう。昨日、後宮で拾いました。ですが妃殿下の手跡でないことだけは、たった今、はっきりいたしました」  計里の差し出した布切れを見て、鴎花は肝が冷えてしまった。  この翡翠色の布にも、これを書いた張本人にも覚えがある。どう考えても鴎花が持っていた翡翠色の絹服の一部で、雪加が書いたものではないか。  鴎花には計里の意図が読めた。  彼は後宮のどこかで出会った雪加本人から、この書付けを預かったのだ。  雪加が昨夜翡翠姫に戻っていたところから察するに、後宮からの脱出でも依頼されていたのだろう。  そして雪加は自らの身分を証明するために、翡翠色の絹の長衣の裾を切り取ったに違いない。  それなのに計里は雪加を迎えに来ること無く、逆に翡翠姫の命令書を偽物としてイスカに手渡してしまった。  この行為は、自発的に差し出すことで計里に反逆の意図が無いことを示すと共に、雪加の命令書に鴎花が絡んでいないと証明したことになる。 (この人は私を翡翠姫として認め、守ってくれた……?)  少なくとも計里には、この布を渡した雪加に肩入れする気が無いことだけは分かった。  本物の翡翠姫と実際に言葉を交わしているなら、そして鴎花の醜い痘痕を見てしまっているなら、二人の入れ替わりに気付いた可能性が高いのに。  それでもなお、鴎花を翡翠姫として遇するというのか。
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