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もちろん、事前に王妃には伝えておいたから、彼女は最近仕立て直した翡翠色の絹の長衣に着替え、銀の簪と面布を身につけて白頭翁を出迎えてくれたのだが、この際の老人の反応はイスカの予想を超えるものだった。
「これはこれは……」
白頭翁は王妃の姿を見るなり声をつまらせた。
そして高貴な人に会えば、自ら名を名乗り、相応の問答をするのが礼儀であるはずなのに、全てをすっ飛ばして、彼女の手を握り、泣き出したのだ。
「なんと……姫様……お懐かしゅうございます」
それはイスカだけでなく、王妃のすぐ後ろに控えていた侍女までが絶句してしまうほどの号泣ぶりで、当然のことながら、手を握られた張本人もうっかり後ずさるほどにうろたえていた。
「ご、ごめんなさい。私もまだ幼かったようで、そなたのことを何も覚えていなくて」
「さようでございましょうとも。この爺ぃめが後宮からお暇をいただいたのは十五年も前のことです」
つまり王妃がまだ二歳かそこらの頃に会ったきりだったということだ。
そのわりに感動しきりの白頭翁は、いつまでも王妃の手を握って離そうとしない。
「ご苦労なされましたなぁ、姫様」
「苦労など……陛下が良くしてくださいますので、不自由なく過ごさせていただいております」
「ほうほう……ではお幸せに過ごしておいでなのですな」
「はい」
「それはよろしゅうございました。爺ぃめは安心いたしました」
「……それくらいでいいか、白頭翁?」
イスカは仏頂面で白髪の老人を引きはがした。
嫉妬するというほどではないが、妻の手をよその男にいつまでも握られるのでは気分が悪い。
もちろん相手は老人で、しかも宦官なのだから大目に見ているが、これがもしも若い男だったら、速攻首を切り落としていたかもしれない。
一方、老人から離れることができた王妃の方も、安堵の吐息をそっと洩らしていることにイスカは気付いた。実質初対面の老人に手を握られるのは快いことではなかったのだろう。彼女の場合、痘痕があるだけに尚更だ。
それでも彼女は乳姉妹である侍女に命じて茶器を用意させると、自ら茶を淹れて白頭翁をもてなした。
鵠国では茶の栽培が盛んで、どんな時でもまずは一服、と茶を淹れる習慣がある。
急須に乾燥させた茶の葉を入れ、そこに湯を注いで緑色の液体を抽出するのだが、苦みの中にほのかな甘みのある飲み物だ。
北の大地で生まれ育ったイスカは当然こんな飲み物を知らなかったが、最近ではこの浮き島へ帰ってくると、まず王妃の淹れた茶を飲むのが習慣になっていた。
王妃は華人でありながら山羊の乳を食してくれるのだ。イスカも華人の文化に少しは親しみたいではないか。
「おおお。あの幼かった姫様に茶を淹れていただける日が来るとは……ありがたいことです」
感謝しきりの白頭翁は、侍女が出す茶菓子には目をくれず、翡翠色の湯から立ち上る湯気と香りを満喫していた。
そしてたっぷりと時間をかけて茶を飲み干した後、茶器をひっくり返して弄り始める。
「ふうむ。これは燕宗陛下の作られた茶器ですな」
「ほう。分かるのか?」
「陛下は陶器の淵の曲線をいかに美しく仕上げるかにこだわっておられましてな。この通り、おなごの尻のように滑らかな触り心地に作っておられるのが特徴なのです」
「……お前は本当に宦官なのだな?」
思わず赤面する王妃の隣で、イスカは呆れた声を上げた。
一般的に宮刑を受けた者は男としての劣情を失うのに、この老人の嗜好はその常識を越えてくる。
「ふぉっふぉっふぉっ。儂はとにかくおなごが好きでたまりませんのじゃ。その点、後宮は理想的なところでしてな。右を向いても左を向いても佳きおなごばかり。一体誰の尻から触ろうかと、目移りするほどで」
「……お前がどうして隠居させられたか、よく分かった」
イスカは頭を抱えた。白頭翁は今年で七十二歳になるという。ならば十五年前は五十七歳。
これだけ元気なら隠居話なんて上がるはずもなかったのに、きっと当時もこの妙な性癖が足を引っ張ったのだろう。
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