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二.
母を失った仔山羊はそれはそれは寂し気に鳴く。
代わりの乳は厨房裏の厩舎にいた別の山羊から貰っているし、それでも足りない時には羊の乳を搾って飲ませているから腹は満たされているのだろうが、獣にだって食欲だけでは埋められぬものがあるのだ。
哀愁を帯びたか弱い声を聞くたびに、鴎花の胸にも悲しさがこみあげてくる。
昨日までは何も無かったのだ。
仔山羊も連れての散歩をあの子も楽しんでいた。草もよく食べていたし、乳も豊富に出ていた。
自分の世話の仕方が悪かったせいだろうか、と鴎花は気に病んでいた。
立ち尽くしている鴎花と共に遺骸を確認したイスカも「これは何か悪いものを食べたのかもしれないな」と言っていたのだ。
悪いもの……そういえば、山羊が雑草を食べてくれるから、わざわざ草むしりをしなくても伽藍宮の庭園が綺麗になる、と言って、鴎花は何でも食べさせてしまっていた。
あれがいけなかったのだろうか。庭園の中に山羊が食べてはいけない草が混ざっていたのかもしれない。
それならば今後、残された仔山羊にどんな草を食べさせたらよいか、考えねばなるまい。今はまだ乳しか飲んでいないが、このところ草を食べようとする仕草が見られる。母山羊の死を無駄にするわけにはいかない。
いろいろ考えているうちに一日が終わってしまった翌日、浮き島へ白頭翁が訪ねてきた。
約束していた茶器一式を早速持ってきてくれたのだ。
「妃殿下におかせられましてはご機嫌麗しゅう。天帝のご加護が今日も妃殿下の上にあらんことを」
型通りの挨拶をする老人に鴎花は薄く微笑んで応じた。本当は麗しいどころの心情ではないのだが、この老人に八つ当たりしても仕方が無い、と自制する。
そんな鴎花に白頭翁は優しい笑みを向けた。
「さてさて、この爺ぃめは茶器以外にも持って来たものがありましてな」
白頭翁は二冊の本を鴎花に手渡した。
本来なら高貴な身分の者に直接品物を手渡すことはできず、間に取次の女官が入るところだが、今日は雪加を最初から同席させていなかったので、鴎花は白頭翁から直接受け取る。
「妃殿下が山羊の食する草について知りたがっておられると昨日、陛下から聞きまして、家にあった本を持ってまいりました。一つは家畜を育てるための指南書です。そしてもう一つは本草書。つまり薬草の辞典ですな」
「薬草、ですか?」
鴎花が問い返すと、白頭翁は頷いた。
「さよう。薬は処理を間違えたり量が多すぎたりすれば毒になります。そして薬になる草には、美しい花を咲かせるものもありましてな。かような宮殿で栽培されることも多々あるのです」
「例えばどのようなものがありますか?」
「そうですなぁ。伽藍宮の庭園ですと、儂がおりました頃にはこの辺りが……」
そう言って白頭翁は本草書を開き、十種類くらいの植物の名前を教えてくれた。
桃や杏の種、さらには蜜柑の皮すら薬になるのだと聞いた時には驚いたが、その辺りの草陰で適当に生えている蕺草なども薬であるらしい。
「しかしまぁ、蕺草は臭いので山羊も滅多に食べますまい。それに食べてしまったところで死ぬほどのことはありませぬ。今が盛りの八仙花にも毒性はありますが、同じく死ぬほどではありません」
「ではどのような植物なら死んでしまいますか?」
「毒性の強さならば、鳥兜や福寿草などでしょうか。どちらもごく少量ならば心臓の薬になりますが、量が多ければ人でも死に至ります」
福寿草とは黄色い小さな花を群れて咲かせる、非常に愛らしい植物だ。花をつける時期が年明けすぐなので、福寿の名を与えられ、縁起のいい花として知られる。
鳥兜という植物のことはよく知らなかったが、福寿草なら鉢植えになっているものを見たことがあるな、と鴎花は思い出した。
そうだ。新年の縁起物として燕宗から雪加に下賜されたことがあったのだ。
燕宗は娘に自作の壺を贈りたがっていたが、雪加から「いつも壺ばかりをいただくのでは置き場所に困ります」と冷たく言われてしまったものだから、渋々植木鉢を焼いたことがあった。
その鉢の中に咲いていたのが福寿草だった。
とても小さく、可憐な花だったのを覚えているが、本によると今の時期は花を落として葉と茎だけになっているようだ。もしかして伽藍宮の庭園にも生えていたのに、花が無いからそれが福寿草だと気付かなかったのだろうか。
「分かりました。ありがとう、白頭翁。これを読んでもう少し考えさせてもらいますね」
「……最後に一つだけ」
老人はつと膝を進めると、歯の無い口をフガフガ言わせながら鴎花に近づいた。
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