四章 福寿の花

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「四、五日前に女官が一人、伽藍宮の裏手を歩いていたそうです」 「え?」 「あの宮は今、鴉威(ヤーウィ)の兵士らの宿舎となっております。そんなところへ華人(ファーレン)のおなごがわざわざ来るなんて珍しいことだと鴉威の者達も申しておりましてな」 「……」 「それでは妃殿下、失礼いたします」  大いに固まってしまう鴎花を残したまま、白頭翁は深々と頭を下げて退出したのだった。 ***  午前中は白頭翁に貸してもらった本を読んでいた鴎花だったが、午後になると仔山羊の散歩に出かけた。今日の供はフーイと組んで橋の袂に詰めているピトという兵士で、まだ若いのだが戦傷によりいつも左足を引きずっている。この怪我があるので、あまり動かなくても良い王妃の警護兼見張り役になっているらしい。  そんな足の人を歩かせて申し訳ないのだが、鴎花は母山羊を連れて回った伽藍宮の庭園を、時間をかけて調べ直した。  本草書によると、確かに福寿草の毒性は強いらしい。  蕗薹(ふきのとう)によく似ているから、人間でも気付かず食べてしまうこともあるのだとか。  しかし庭園の中には、どれだけ探しても福寿草らしい草は見つからなかった。  草むらの中を探し疲れた鴎花がふと顔を上げれば、白い漆喰で塗り固めた高楼が赤い光で染まっているのが見えた。  そろそろ夕方だ。浮き島へ帰らねばならない。  今日の夕飯作りは小寿(シャオショウ)に一切を任せており、後で届けてくれるように頼んでいるから心配いらないが、鴎花がいない間にイスカがやって来れば、雪加と二人きりになってしまう。  このところ、雪加と鴎花の仲はギクシャクしていた。  計里(ジーリィ)に手ひどく裏切られたのが、雪加には堪えたらしい。  計里も二階にまさか本人がいるとは思っていなかったのだろうが、『(きみ)(きみ)たらざれば、(すなわ)(しん)(しん)たらず』という理由で彼が雪加への忠誠心を失ったのだときっぱり言われてしまえば、それは確かに心が折れるかもしれない。  計里やアビが退出し、居眠っているイスカに気付かれぬよう雪加を一階へ降ろそうとして鴎花は梯子をかけたが、その時の彼女は、これまでに鴎花が見たこともない雰囲気だった。  何をするにも直情的な彼女が泣くでもなく、怒鳴り散らすでもなく、ただ眉間に皺を寄せたまま、青白い顔をして座っていたのだ。  鴎花が声をかけても応じることはなく、この後はイスカの前ですら不貞腐れた態度を取るようになった。  おかげで鴎花もその不遜な態度を誤魔化すのに苦心し、主君である彼女に対し、苛立つことが増えてしまったのだ。  関係悪化に拍車をかけたのは二日前、白頭翁が初めて訪ねてきた際のことである。  後宮のことを知っている宦官が訪ねてくると分かった時には、さすがに二人ともが危機感を覚え、協力して臨むことに決めたはずだった。  だから鴎花は華やかに着飾り、逆に雪加は地味な着物で化粧も控えめにした。  装いに差をつけることで鴎花に翡翠姫らしさをもたせようとしたのだが、やってきた宦官は十五年も前に後宮を去っていた人物であると判明し、そのおかげで翡翠姫の入れ替わりにも全く気付かれなかった。  鴎花は大いに胸をなでおろしたものだが、雪加はこの時、気付かれないことに対し逆に不満を覚えてしまったらしい。  鴎花は痘痕面なのだ。顔は面布で隠せても、手の甲にも首筋にも痘痕は浮いている。  それに対して侍女を務める雪加は、美しい顔を惜しげもなく晒しているのだ。侍女の方が高名な翡翠姫に相応しいではないかと察してくれてもいいものを、と思ったようだ。  そしてその苛立ちは白頭翁が、佳きおなごがいれば手出しを我慢できない、と話したところで頂点に達してしまった。  あの発言は裏返せば、雪加では手出しする気にもならない、と言っているようなもの。  もちろん雪加だって、皺だらけの宦官に好かれたいわけではなかったはずだ。ただ、美しさを誇る彼女にとって己の美貌を無視されたのは耐えがたい屈辱であり、彼女は咄嗟に、その怒りを手元の茶器にぶつけてしまった。  イスカと白頭翁はその辺りの背景に全く気付いていなかったから、茶器が割れたことにただ驚くだけだったが、鴎花だけはこれは危険だとすぐに見抜いた。  このままでは怒りで我を忘れた彼女が何を口走るか分からない。だからこそ強い口調で雪加を外へ追い立てたのだ。
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