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三.
鴎花が夕陽と共に伽藍宮の池の前まで帰ってきた時、ちょうど詰所から去っていくアビの背中が見えた。
従者が単身で帰っていくということは、その主はもう浮き島へ行ってしまったに違いない。
付き添ってくれていたピトと詰所前で別れた鴎花は、大急ぎで橋を渡った。こんな時に限って仔山羊が気儘に草の匂いなどを追いかけて立ち止まるから、面倒になって抱き上げる。
気持ちばかりが急いて、足に裳がまとわりついた。
遠くまで行ったわけではなかったのに、思った以上にピトの足の具合が悪くて、ここまで戻るのに時間を食ってしまったのだ。早くしなければ、雪加が何をやらかすか分かったものではないのに……。
しかし橋を渡っている間に、浮島にある家の扉の前に雪加がしゃがんでいる姿が見えてきたのだ。
「姫様……」
彼女はなんと、七輪で湯を沸かしているところだった。
一応、雪加もその使い方は知っている。皇女が火を使えてその侍女が何もできないのでは不自然だから、鴎花が無理矢理に教えたのだ。
しかし実際に彼女が湯を沸かすことは、これまで皆無だったわけで。
(……それが何故?)
イスカに茶を淹れてもてなすために?
いや、イスカを僭王と蔑む雪加が、彼のために動くなんてありえない。
一瞬緩みかけた気持ちを引き締め直した鴎花がそっと近づくと、気付いた雪加が振り返った。
「もう来ておるぞ」
彼女は主語を省くかわりに、家を指さして言う。
美しくも淡々としたその表情からは、彼女の意図が読みきれない。
不安な気持ちを抱えつつも追及しきれないのがもどかしいが、鴎花は慇懃に頭を下げた。
「戻るのが遅くなって申し訳ありませんでした。姫様が湯を沸かしてくださったのですね。ありがとうございます」
「そなたはその山羊を、早う片付けて参れ」
中にいるイスカに聞こえてしまわないよう小さな声ではあったが、雪加は「獣臭くて堪らぬわ」と吐き捨てるように言った。彼女はとにかく山羊が大嫌いなのだ。
「失礼いたしました」
鴎花はもう一度頭を下げると、まずは仔山羊を抱きかかえたまま、家の脇にある小屋へと連れて行った。
浮島に余計な土地が残っていないので、山羊小屋は鴎花達の住む家に寄り添うようにこじんまりと作ってもらった。それでも仔山羊が一匹で暮すには十分な広さで、雨風を防ぐための屋根もついている。
鴎花は仔山羊を下ろすと、閂を外して木製の戸を開けた。
途端に小屋の中からは雪加の嫌う獣臭が溢れ出てくる。
ついでに蠅も飛んできたから、追い払おうと手首を閃かせた鴎花だったが、その時、小屋の床に敷き詰めた寝藁の隅に青白色の器が置かれていることに気付く。今朝、掃除をしたときにはなかったものだ。
(これはまさか……?!)
鴎花は身をかがめて小屋の中に入ると、器を手に取った。
この感触……間違いない。燕宗が雪加に贈った植木鉢だ。鴎花も傍らにいて、かつて目にしたことがある。
両の手のひらから少し余るくらいの大きさの植木鉢は、側面には唐草模様が描かれていた。そして縁の辺りは、白頭翁なら間違いなく女性の尻のようと表現するであろう、滑らかな丸みを帯びている。
更に植木鉢の中に入っていた土には、何かを抜き取ったかのように、真ん中にくぼみができていたのだ。
(……!!)
植木鉢を覗き込んだ鴎花の脳裏には、まさに最悪の光景が浮かんでいた。
喉元を押さえたイスカが苦しみ悶えながら、倒れこむ。
それを冷たい目で見下ろす雪加と、床に転がった茶器。その中に僅かに残った翡翠色の液体には、細かく刻んだ福寿草の粉が入っていて……。
「!!!」
鴎花は声にならない悲鳴を上げた。その瞬間、うっかり屋根に頭をぶつけてしまうが、その痛みも感じない。
鴎花の背後では仔山羊が黒目がちな瞳で見上げていた。何が起きたのかと不思議に思ったのだろう。
しかし鴎花はそんな仔山羊を無視し、閂を掛け直すこともしないまま、家に向かって一目散に走り出したのだった。
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