四章 福寿の花

8/16
前へ
/150ページ
次へ
***  血相を変えた鴎花が、皇女らしさのかけらもない荒っぽい所作で戸を開けた先では、イスカが絨毯の上で普段通りに胡座をかいて座っていた。  雪加はそんなイスカの前で膝をついている。  侍女として振る舞う彼女の膝前には、盆に載せた茶器一式があった。  これは午前中に白頭翁から譲ってもらった茶器である。意匠を何も刻み込んでいない琥珀色の器は、その分表面の滑らかさに拘った作品で、盆の真ん中には急須も置かれていた。中にはもう茶が入っているはずだ。  広くもない部屋である。慌てていた鴎花は声を発するより先に、眼前の茶器に飛びついた。  しかし盆ごと奪い取るつもりが、勢い余って急須が横倒しになり、こぼれた茶に驚いたイスカが飛びのく。 「のわっ?!」  茶の飛沫は鴎花の手にも飛び散ったが、全く熱さを感じない。  そんなことよりも茶があまりに濃い色であることに驚いた。透明感のある翡翠色のはずが、濁って見える。  普通はここまで濃く淹れないものだ。雪加は茶葉を増やすことで福寿草の味を誤魔化そうとしたのだろうか。  何はともあれ、イスカが口にする前に制止できて良かったが……。 「これはどういうことだ、雪加?!」  偽りの名で叱責されたことで、興奮状態にあった鴎花の頭は突如として現状を理解した。  鴎花の今の行動は、イスカの為に用意されていた茶を横合いからなぎ倒してまで飲ませなかった、というものになる。  それが意味するところは……。 「まるで毒でも入っていたかのようだな」  唸るような低い声が耳に届き、背筋を凍りつかせた鴎花は、茶器一式を抱え込んだまま平伏する。  床に頭をこすりつけるようにして「失礼をいたしました」と詫びたが、この時にはもう、イスカは雪加の手首を容赦なくひねり上げていたのだ。 「!」 「つまり、この女がその茶に毒を入れたんだな?」 「そ、そんな……毒見もきちんとしておりますのに、毒なんて盛るはずがありません」  雪加を解放してもらおうと、鴎花はおろおろしながらイスカに縋りついた。  別に間違ったことは言っていない。  普段から鴎花が作った食事は一旦、ピトとフーイに預けて毒見を受けているし、それが叶わない……例えば茶を淹れた場合などには鴎花自身が彼の目の前で少しばかり口に含み、毒見の代わりをしている。雪加も鴎花さえ邪魔しなければ、自分の口で毒見をしたはずだ。  まだ世継ぎも定まっていないイスカは、自分が倒れると鴉威が崩壊することをよく理解していて、それだけに食べ物の安全管理には気を使っているのだ。 「だが、あの慌てぶりは普通じゃなかったぞ」 「この者は私の侍女です。陛下に仇なすはずがありませぬ」 「お前にその意図がないことは分かっている。だが、こいつはこれまでも俺に対して、悪い態度を取っていた。華人として、俺のことがよほど気に入らぬのだろう」 「め、滅相もありませぬ。私はただ……この者が古くなった方の茶葉を使ったのではないかと疑って、そんなものを陛下のお口に入れてはいけないと、つい慌ててしまっただけで……」  鴎花は必死に言い訳してみたが、イスカは全く信じてくれない。彼の逞しい腕は雪加の手首をひねり上げたままだ。  このままでは、いつ腰間の長剣を抜き、その首を刎ねてもおかしくない。  あぁ、ここに来て雪加の日頃の態度の悪さが響くとは。  確かに鴎花はイスカからの信頼を勝ち得ている実感があるが、彼にぞんざいな態度をとる雪加の心象が悪いのは当然のことだった。  それでも今までお咎めがなかったのは、鴎花の乳姉妹だから大目に見てもらっていただけのこと。  鴎花がどれだけもっともらしく言い訳したところで、イスカが聞き入れてくれるはずはなかったのだ。  なんとかして、これが毒ではないと証明しなければ……いや、違う。ここまで来たら、毒だという証拠自体を消さねばならない。  鴎花は盆の上で倒れていた急須を掴んだ。  蓋は絨毯の上でひっくり返っており、ちらと覗き込むだけでその中を見ることができる。  元々一杯分のお湯しか入っていなかった上に、こぼれてしまったため、液体部分は殆ど残っていない。だが、濡れた茶葉だけは急須の底に張り付いていた。  この出涸らしの中に福寿草が混ざっていたら……。  鴎花は敢然と顔を上げ、イスカに甲高い声で訴えた。 「陛下、お気を鎮めてくださいませ。所詮、古くなって味が悪くなっただけのことです。誤って飲んでしまったところで体に害はありませぬ。その証拠に、ほら」  悩んでいる暇は無かった。  鴎花は急須の中に指を入れ、掴んだ茶葉を一思いに頬張ってしまう。  しかし舌の上に乗せた瞬間、苦味の中にピリっとした刺激のようなものを感じた。その直後、心臓が暴れ馬のごとく、ドクンと跳ね上がる。  本草書には、福寿草は強心剤だと書いてあった。  鼓動の弱っている心臓を、強くする薬。  つまり飲みすぎると心臓が必要以上に強く脈打ち、嘔吐、頭痛などの諸症状が現れ、やがては……。
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加