四章 福寿の花

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 脳裏に浮かんだのは、口から泡を吹いて倒れていた白い山羊の姿だった。 (私もあれと同じに……!)  喉の奥から込み上げてくる恐怖が、茶葉を押し戻してくる。飲み込んではいけない、と体自身が拒絶しているようだ。  しかしこの茶葉こそが、福寿草が入っていた決定的証拠になってしまうのだ。雪加の罪を証明するものを、現場に残す訳にはいかない。  口中に詰め込んだ固くて苦くてゴワゴワした茶葉を、鴎花は強引に飲み下した。  しかしその次の瞬間、雪加を突き飛ばしたイスカが、鴎花の喉元を掴んできたのだ。 「馬鹿!! やめるんだ!!」  咄嗟に鴉威の言葉で叫んだ彼は、鴎花が飲み込むのを防ごうとしてくれたのだろう。  しかし一歩遅かった。  それを知ると、イスカは鴎花の手を掴み、猪の如き勢いで家の外へと連れて行った。 「吐け!」  イスカは鋭い口調で命じると同時に、鴎花の背中を強打した。  しかしいくらイスカの命令であろうとも、これだけは聞けない。  雪加を守らなければ……主君への忠義心を当然として育てられた鴎花にとって、これは疑う余地のない使命なのだ。  なんとかして吐かせようと口の中に指まで突っ込んでこようとするイスカから逃れ、鴎花は無理矢理に微笑んだ。 「問題ありませんよ、陛下。毒など元々入っていないのですから」 「だったらその汗はなんだ!」  イスカに指摘されたことで初めて気付く。  なんと。まるで全身を覆う痘痕の一つずつから体液が滲み出ているかのような、大量の汗をかいていたのだ。 「こ、これは……」  己の体の異変を目の当たりにして愕然とし、言葉も出なくなった鴎花は、そのまま胸を押さえてうずくまった。  唐突に、異様な動悸が襲ってきたのだ。  手足の先が痺れ、呼吸も荒く早くなるのも分かった。  息を吸っているのに吸い込めないような感覚。陸地にいながら溺れてしまったのだろうか。  これはいけないと焦れば焦るほど体の自由は奪われ、視界が朦朧としてくる。 「おい、雪加!!」  しっかりしろ、とイスカが背中を抱えてくれたのは分かった。  しかし鴎花は直後に意識を手放し、彼の腕の中へと倒れ込んだのだった。 ***  鴎花が次に目を覚ました時には、知らない天井の下にいた。  今は夜なのだろうか。暗い部屋の中にいた鴎花の頭の脇では燭台の灯りが揺れていた。おかげで螺鈿細工を駆使して天井に描かれた、空を舞う龍の姿もまた、揺れて見えた。  天井にまでこんな立派な絵を描いてしまうということは、やはりここは瑞鳳宮の中なのだろうと、目覚めたばかりの(もや)のかかった頭で考える。  そういえば寝かされている寝台もこれまでになく立派なもので、白い綿布団も心地いい。  どうやら鴎花のために手厚い看病が行われていたことは、すぐ側に医者らしい服装の男がいたことからも察せられた。 「妃殿下?! お気づきになられましたか?!」  甲高い女性の声が降ってきた。  小さくない体を揺らして鴎花の顔を覗き込んでくるのは、いつも料理を教えてくれる下女の(リン)小寿(シャオショウ)だ。 「小寿……?」 「夕飯を届けに来たら、妃殿下が倒れられたっていうんですもの。びっくりしましたよ。でも気がついて良かったです。すぐに陛下を呼んできますからね。心配しすぎてかえってうるさいんで、一旦隣室へ移ってもらったんですよ」  彼女の言うように、イスカは鴎花を案じ、隣室に控えてくれていたようだ。  小寿が部屋を出ていった直後、間を置かずにやってきたイスカは、むしろ彼の方が倒れていたのではないかと思うほど憔悴した表情に見えた。 「お前は馬鹿か! どうしてこんな無茶をした!」 「陛下……」  叱られているのに布団の中から見上げるこの人の瞳はやっぱり綺麗な蒼色だなぁ、と鴎花は不届きなことを思ってしまう。  そして、少しずつはっきりしてきた頭で状況を考えた。  鴎花はイスカの前で倒れたのだ。命が助かったのは良かったが、あれから一体どれくらいの時間が経っているのだろう。  そして、何よりも……。 「あの……鴎花はどこに?」  鴎花の問いかけに、イスカは切れ長の目をついと細めた。  しまった。これだけ心配をかけておいて最初に問うのがそれなのかと、不審に思われたに違いない。  鴎花は己のしくじりに気付いたが、それでも問わずにいられなかったのだ。 「私が倒れてしまって、気に病んでいると思うのです。ここにいないようですが、あの子はどうしていますか?」 「浮き島に閉じ込めてある。あれが毒だと確証を得ることができたら首を刎ねるつもりだ」  だが今のところ証拠が見つからない、とイスカは言った。
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